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[第1号より](1946)
完全復刻・岩燕第一号
馬場義仁・中村太郎他 |
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「二列縦隊、前へ進め!」戦後間もない昭和21年、第一回の部山行として企画された高尾山山行の感想をはじめ、巻頭言から編集後記までを完全収録。 |
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[第5号より](1958)
1957年春合宿レポート
三島・小林・佐藤 |
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北ア・遠見尾根から五竜・唐松の全員登頂をめざし、3隊13人、15日間に及ぶ大合宿は始まった。 遠征スタイルの一つの頂点を示す五竜岳「征服」の記録。 |
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[第1号より](1946)
岩燕第一号巻頭言
菊池部長 |
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「太古にして大新なるもの、それは自然のもつ力であり、之を感ずる人間の魂であろう...」岩燕創刊に際して巻頭に掲げられた初代顧問部長による一文。 |
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[第3号より](1947)
「紅葉の山と渓谷」
中村太郎 |
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晩秋の日原から雲取へ。渓谷遡行、薮こぎ、そして野宿。 交錯する希望と不安をみずみずしく描いた山岳紀行。 |
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[第4号より](1953)
1947年度春合宿レポート
小田 薫 |
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定着方式による、丹沢北面の核心、神ノ川流域の沢の網羅的集中調査報告。 羚羊の大群は原生林を疾走し、丹沢は、本来の野性を顕にする。 |
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[第4号より](1953)
1948年度冬合宿レポート
成瀬杉雄 |
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スポーツアルピニスムを標榜して設立された麻布学園山岳部。第一期メンバーの集大成とも言うべき冬季合宿は、「夢にまで見た」赤岳を対象として行われた。 |
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[第5号より](1958)
1956年度冬合宿レポート
佐久間義敬 |
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スキー未経験者四名を含む九名の現役は、冬の北アルプス・白馬岳へ向かった。足にはスキー。背には30Kg の荷物。 一行は次々と顔から斜面に突っ込んで行く。 |
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[第5号より](1958)
「山」
中畑善雄 |
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松本に生まれ、授業中も絶えず山を語ったという顧問部長による、山への限りない愛慕を表明する第五号巻頭言。 慈愛に満ちた文章が心にしみる。 |
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[第2号より](1946)
「山中湖畔にて」
櫻井晴二 |
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山岳部創立直後の夏期計画として立案された山中湖行。翌冬、雪の志賀高原で急逝した筆者が、 戦後間もない山中湖の情景を潤いのある筆致で描写する。 |
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[第4号より](1953)
1953年度夏合宿B班レポート
荒垣 敬 |
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本隊A班を南ア・広河原峠で見送り、甲斐駒へと向うB班のレポートは、隊の足取りよりも筆者の想念の道行きを重点記録して愉快な一文となった。 |
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[第5号より](1958)
「山の明暗」
風間昌司(ブーにゃん) |
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当時二年間にわたり顧問部長をつとめた筆者が、自身の登山経験と実弟の遭難事故に託して山の明暗を語る。 |
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[第5号より](1958)
「峠」
伊藤栄康 |
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詩と散文で綴る三伏峠行。太陽、霧、星、雨、足もとの雪... めまぐるしく入れ替わる光彩のなかで、通低音のように響きあう不安と死の暗示。 |
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[第3号より](1947)
「大菩薩峠登行記」
小倉茂暉 |
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暮れも押し迫った昭和21年末、親しい仲間と連れ立って越える大菩薩峠。 樹氷の輝く極寒の山道に、友人同士のわらい声がひびく。 |
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[第4号より](1953)
1952年度春合宿レポート
神原 達 |
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失敗続きの年度の最終合宿。OB は下山、リーダーは腹痛。二名となったアタック隊は敢然と甲斐駒に向う。 初の雪山に高ぶる心のまま克明に綴られた合宿の始終。 |
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[第5号より](1958)
1954年春合宿レポート
近藤隆治 |
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「進歩には飛躍も必要である。」OB会の忠告を振り切り、積雪期初の北アルプス合宿は現役部員のみの参加により強行された。しかも場所は、鹿島槍東尾根。 |
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[第5号より](1958)
南アルプス白峯荒川遡行
笠原達雄・後藤正彦 |
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池山吊尾根・大唐松尾根に抱かれるように、白峰三山東面に深い沢の根を張る野呂川支流・荒川。「滝の都」荒川核心部、三ツ瀑に挑んだ 1954年9月の記録。 |
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[第4号より](1953)
巻頭言・寸言
近藤啓吾
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当時の漢文教師、後の大学教授が、山をうたった李白の詩の、山の険しさや山の苦しさ楽しさを伝える表現を通じて、東洋の山人という概念を語る。 |
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お待たせしました。幻の岩燕 IV 号・V号を関係者の方の御尽力により入手いたしました。順次掲載していきますのでお楽しみに。 |
驚くキジ |
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