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tome V
山(1958)中畑善雄(部長)
麻布へ来て三年目、何やら知らぬ間に山岳部の椅子がまわって来て、わたしとしては満更でもない気持で引受けたのであるが、四月、昨年度卒業部員の送別会席上で、はじめてOB諸君と顔をあわせてみて内心ひそかに自分の誤算に気づいたのであった。
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東京へ出て来てからしばらくの間それまではいつも行手に立っていた山が見えなくなったために、胸の中に穴があいたようにわたしはポカンとしてしまった。眼鏡なしで歩いているときのように体が安定しなかった。しかしながら山岳部員諸君にとって山とはわたしの描いていたようなものではないことが、最初の会合ではっきりわかった。諸君の山に対する愛着は熱愛というべきであり、ほとんど純粋強烈そのものであった。正直に云ってわたしは諸君のまえに気遅れがしたのである。そこで今「岩燕」にと求められてわたし自身についてではなく、かつては諸君と同じように山に挑んで行ったのであるが、ついに山に生命をのみこまれてしまったわたしの親友についてその消しがたい思い出をここに書きとめておきたい。(送別会席上で一寸触れたが重複をお許し願いたい)
秋十月柿は熟していた。わたしは親友の部屋である土蔵の二階で窓に並んで腰かけもぎとって来た柿をかじりながらこのわたしたちの母校の寮歌を彼から教わったのである。体は小さかったが彼の声は腹の底の方からひびいて来た。丁度この部屋からは乗鞍が見えた。彼の眼は山の方へそそがれ感激のためにいくらか輝いているようであった。部屋が暗くなり、夕焼の色があせてゆくまでわたしたちは何べんもくりかえして歌った。(その後<雲にうそぶく>を歌うと必ずあの日の情景が浮んで来る)
葬いの日に生き帰った同行者Mから当時の模様をくわしく聞いた。それによると大よそ次の通りであった。二人が白馬鑓の下、追出ッ原までくだったときは日が暮れて峻烈な吹雪に襲われた。やむなく窪地にテントを張り一夜過した。夜が明けても吹雪はおとろえずほとんどテントは埋まりそうであった。とにかく下ることに決めて山には慣れていたわたしの親友が径を探しに出た。しばらくたっても戻らないので今度はMが親友を探しに出た。親友が見つからないうちにMはスリップして深い沢に落ちてしまった。Mは必死になり上に向ってヤツホーをかけつづけた。かなり呼んでから返事があった。しかし昨夜降ったばかりの雪はやわらかく深く、Mは沢から這いあがることができないまま上とヤツホーをかわしていた。ところがフット上の声が消えて、あとはいくら呼んでも返事はもどって来なかった。それからMは沢を下って一昼夜歩きつづけ部落に救いを求めたのである。わたしは黙ってMの話を聞いた。Mの胸の中を想像すると反問一つできない気持であった。 親友の遺骸だけは翌年の雪解けを待って行われた捜索もいれて何回となくつづけられたのであるが、とうとう発見できなかった。おそらく彼の体の上に一冬の雪が降りつもり春の雪解けとともにカチカチになったその体は厚い雪渓の底をくぐって激しい渓流に砕かれ散って遠く運ばれて行ってしまったのではないだろうか。 次の夏わたしたちは追出ッ原に石碑を立てた。ゆるやかな広い斜面に可憐な花が咲き乱れていた。花を摘んで来てそなえ、携えて行った酒を碑にたっぷり注いでやった。亡き親友は酒が好きであった。 |
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