tome V


 

(1958)

中畑善雄(部長)


麻布へ来て三年目、何やら知らぬ間に山岳部の椅子がまわって来て、わたしとしては満更でもない気持で引受けたのであるが、四月、昨年度卒業部員の送別会席上で、はじめてOB諸君と顔をあわせてみて内心ひそかに自分の誤算に気づいたのであった。

わたしはわたしなりに山(といっても知っているのは北アルプスだけであるが)が好きであった。生れてから二十数年間ずっと山にかこまれて生きて来た。わたしの故郷の町では、どこに立っても山が見える。幼い頃は山がわたしの生活、わたしの空想の限界でもあったし、またわたしをかばってくれる大きな掌でもあった。十一の年の夏はじめて燕に登って後立山の威容にびっくりしてしまった。ゆるやかな這松の間の径を一気にかけ登って燕山荘の横に立ったとき、アーッと声をあげるしか子供のわたしはこの感動を表わす術を知らなかったのである。以来この山に惹かれては登っていったことが何べんであったか。しかしわたしの山登りはいつまでたってもシロウトの域にとどまった。針ノ木の雪渓で豪雨にあったときなど、手や足の感覚がなくなってしまって意識もモーローとして小屋にたどりついた。そんな目にあいながらなお、わたしは性こりもなく山を研究しないで登っていったのである。山はわたしにとって挑む相手ではなかった。山はいつもうっとりと見とれてしまうような相手であった。だから少しもわたしの心を惹きつけない富士にはついぞ一ぺんも登ろうと思ったことはない。真冬月の光が冴えておれば時として槍の雪が烈風のために吹き散らされるのが、黒々とした空にはっきり見えることがある。そんなときわたしは一人氷のはりつめた田圃(早朝、子供らが氷滑りを楽しむ)に立って厳粛な感動にふるえている。八月、ほとんど何処の山の雪渓も見えなくなって、ただ乗鞍だけに一片の雲のような雪が残っている景色は毎夏のことながら、わたしを楽しくしてくれる。


東京へ出て来てからしばらくの間それまではいつも行手に立っていた山が見えなくなったために、胸の中に穴があいたようにわたしはポカンとしてしまった。眼鏡なしで歩いているときのように体が安定しなかった。しかしながら山岳部員諸君にとって山とはわたしの描いていたようなものではないことが、最初の会合ではっきりわかった。諸君の山に対する愛着は熱愛というべきであり、ほとんど純粋強烈そのものであった。正直に云ってわたしは諸君のまえに気遅れがしたのである。そこで今「岩燕」にと求められてわたし自身についてではなく、かつては諸君と同じように山に挑んで行ったのであるが、ついに山に生命をのみこまれてしまったわたしの親友についてその消しがたい思い出をここに書きとめておきたい。(送別会席上で一寸触れたが重複をお許し願いたい)

雲にうそぶく槍穂高 天馬の姿勇ましき
乗鞍白馬みな友ぞ
もゆる瞳をいかにせむ
さらばいざ立て若き児よ
もろてを拡げよじのぼり
男の子の力ためしみむ
信濃はうれし夏の国

秋十月柿は熟していた。わたしは親友の部屋である土蔵の二階で窓に並んで腰かけもぎとって来た柿をかじりながらこのわたしたちの母校の寮歌を彼から教わったのである。体は小さかったが彼の声は腹の底の方からひびいて来た。丁度この部屋からは乗鞍が見えた。彼の眼は山の方へそそがれ感激のためにいくらか輝いているようであった。部屋が暗くなり、夕焼の色があせてゆくまでわたしたちは何べんもくりかえして歌った。(その後<雲にうそぶく>を歌うと必ずあの日の情景が浮んで来る)

やがて秋は深まり一夜明けてみると学校の桜の葉がことごとく赤黄色に変っていた。強い霜がおりたのである。その朝彼は山岳部の冬山縦走の下見のためにほかの部員一名と後立山に出発していた。(あとでお母さんから聞いたことだが見送って出たお母さんがリュックで見えなくなるくらい小さな彼の後姿にむかって声をかけた。しかしいつも朗かな彼はその朝にかぎって聞えなかったのであろうが、振りむいて笑顔を見せなかったそうである)四、五日の予定であった。わたしは彼の山好きはもちろん、彼のアルピニストとしての実力と慎重さをよくわからぬながらほんとうに信頼していたし、平地では晴れの月がつづいたので少しも心配しなかった。しかし二人の下山予定の日から一日おくれて部屋へ遭難の報せが舞いこみ直ちに捜索隊が組織されて現地へ急行した。わたしの親友が遭難行方不明で同行の一人はへとへとになって麓の部落にたどりつき、救援を求めたというのであった。わたしはその報告を聞いた瞬間目先が真暗になってしまった。ただ不死身とも思われた彼がどこかの部落まできっとたどりつくにちがいないというかすかな確信に支えられて一日一日を待った。(わたしは部員でなかったので捜索隊に加えてもらえなかった)そして装備の限界から考えてあとは奇蹟を頼むだけとなってしまった。だが彼はついに帰って来なかった。リュックとピッケルだけが発見された。

葬いの日に生き帰った同行者Mから当時の模様をくわしく聞いた。それによると大よそ次の通りであった。二人が白馬鑓の下、追出ッ原までくだったときは日が暮れて峻烈な吹雪に襲われた。やむなく窪地にテントを張り一夜過した。夜が明けても吹雪はおとろえずほとんどテントは埋まりそうであった。とにかく下ることに決めて山には慣れていたわたしの親友が径を探しに出た。しばらくたっても戻らないので今度はMが親友を探しに出た。親友が見つからないうちにMはスリップして深い沢に落ちてしまった。Mは必死になり上に向ってヤツホーをかけつづけた。かなり呼んでから返事があった。しかし昨夜降ったばかりの雪はやわらかく深く、Mは沢から這いあがることができないまま上とヤツホーをかわしていた。ところがフット上の声が消えて、あとはいくら呼んでも返事はもどって来なかった。それからMは沢を下って一昼夜歩きつづけ部落に救いを求めたのである。わたしは黙ってMの話を聞いた。Mの胸の中を想像すると反問一つできない気持であった。

親友の遺骸だけは翌年の雪解けを待って行われた捜索もいれて何回となくつづけられたのであるが、とうとう発見できなかった。おそらく彼の体の上に一冬の雪が降りつもり春の雪解けとともにカチカチになったその体は厚い雪渓の底をくぐって激しい渓流に砕かれ散って遠く運ばれて行ってしまったのではないだろうか。

次の夏わたしたちは追出ッ原に石碑を立てた。ゆるやかな広い斜面に可憐な花が咲き乱れていた。花を摘んで来てそなえ、携えて行った酒を碑にたっぷり注いでやった。亡き親友は酒が好きであった。



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