二、夜の湖畔
夕方の静けさを味はひたいものと思って、ぶらりと湖面に出た。湖面も、岸の山々も、共に暮色に黒ずんで、その境界ははっきりしない。富士は真晝と打って変って、まるで真黒な巨大な魔物の上にのしかゝってくるのかと思はれるばかりに、夕空にそびえてゐる。対岸の燈火がちらちらと水面にうつって、言い尽せない程美しい。晝間O君や三年のH君とボートを漕いで行ったのは、あの部落だらう。
月見草の沢山咲いて居る足もとの草むらでは、虫が細々と鳴いて居る。夏とはいひながら、高原には早くも秋がしのび寄って、虫の音も聞える。闇夜の空には星が美しく輝いてゐる。いつしか富士の真黒なかたまりも見えなくなった。夕暮から夜になったのである。あたりはしーんとしづまり返って、ちゝゝゝゝと鳴く虫が一層淋しさを増す。ぞっとする様な静けさだ。人間世界とは思はれぬやうな静けさに立ち去るのが惜しい程であったが、うすら寒い夜風が肌にしみて、寮の方からN君やT君達のドンチャン騒ぎにひかれて、湖畔から寮へ引返す。時々振り返っては、暗い木立に見えかくれする対岸の燈火を眺めながら、虫の声は歩くにつれて私を迎へ、そして私を送ってくれた。
山行記録が掲載されている1946年活動記録はこちら。
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裏事情が色々言及されている1947年回顧はこちら。
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