[chronicles]



1946〜48年度(昭和21年6月〜24年3月)をふり返って

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中村太郎




現役の人達から原稿を書く様に依頼された。「今度創立十年を記念して部報を出しますが十年記念号と云うので歴代キャプテンに部の想い出を書いてもらうことにしましたから、あなたも何か書いて下さい」と云うのである。考えてみると麻布に山岳部ができて十一年立っている。よくここまで無事に発展してきたものと改らためて考えさせられた。小田や小倉と学校の屋上から初冬の秩父の山波を眺めていたのがついこの間の様に思えるがもう十一年も過ぎてしまった。

さて御注文通りになにか書いてやろうとペンをとったらスムースに書けないことに気がついた。当時の記録を機械的に並べるだけなら大したこともないのだが、当時の模様をありのまま書くのでは勇気を必要とする。なぜならば我々のいた頃の山岳部はあまりにでたらめだったので今更ながら気恥しいからである。この種の想い出は武勇伝や失敗談の積み重さなりの様である。だから気の置けない山友達や時に女房を驚かすのに役立つのであって、部報に乗せるにふさはしくない。それをあえて書かせるのだから現役の小林君などはまことに罪深い極悪人だと思う。


我々が山岳部を創ったのは中学四年の時である。始めに私が山岳部を創った動機を簡単に書いておこう。

私の子供の頃は木登りをしたり、山の冒険談を聞いたり、多くの出好きの人達の子供の頃と同じであったと思う。ただ違ったのは戦争の影響である。戦争のお蔭で日本海に面した片田舎で生活することになり、見渡す限りの原っぱを思う存分駆けまはることができた。十二、三才の時だが、ここで奔放な精神が培はれた。ここの生活は昭和20年8月敗戦によって終ることになった。ふたたび麻布に戻ったのであるが、戦後の東京は全く無味乾燥であった。授業も満足になかったし、映画館は長蛇の列であった。野球するにもグラブはなし、と云う状態ではまず歩くだけで愉しめる山の登りに落付くのは当然のことであった。

20年の10月には御岳、大岳へ、冬には海沢へ行った。この山行は今考えるとばかばかしい程苦労した。五日市の地図を買うために銀座の露店でさんざん恩に着せられ、思いだす度にしやくにさわっている。青梅線はカラス電車の異名の通り炭の買出しで満員だった。しかし不愉快な思いをしても山は素晴しかった。こうして山に惹かれだすと仲間が欲しくなった。登山にはチーム・ワークが大切であるが、その頃の気持としては山の一人は淋しいからと云う単純な理由であった。

私は同志を集めて山岳部を創る気になつた。


戦後の混沌とした状態がいくらか落付くと、麻布でも戦前活躍していた部が復活するとか、部を創立しようとか云う積極的な動きが現はれだした。21年の4月だったと思うが、寺島と云う人が山岳部を創ろうと相談に来た。私もその気でいたところから意気投合し、急に話しが具体化した。寺島は早速学校当局と折衝しほとんど彼一人で膳立を済せてしまった。山岳部創立に参加した人達は寺島欽雄、北川保、坂本龍俊、馬場義仁、小田薫、小倉茂暉、成瀬杉雄などであった。マネージャーには四年から一高へ行った秀才の馬場がなった。キャプテンには私がなんとなくなってしまった。

山岳部の生誕を思うと亡くなった井熊誠一先生のことがすぐ頭に浮ぶ。あらたまって井熊先生とお呼びするより、オチンと云った方が先生の実感が湧くので失礼は御免蒙って、以下オチンと呼ぶことにする。私が主将となると、教員室ヘオチンに呼ばれた。なにごとかとびくびくして出頭すると、オチンは頭から「おい、死ぬな。お前達が遭難すると学校が迷惑するからな。」と云はれた。頭からと云っても正確にはがっちりはしているが小柄な先生なので上体をそらせて私を見上げて云はれたのである。しかし、見下している私なのに頭から云はれた様に感じた。先生はそれ程貫録がおありになったのである。他にもなにか云はれた様に思うが、日頃腕白であった私なので長居は無用と話もそこそこに退散してしまった。もし今日、先生が御存命ならば山岳部の成長を一番喜んで戴けたものと思う。むちゃばかりで叱かられ通しの山岳部だったので、今の山岳部を一目みて戴けたらと残念である。

井熊先生の御尽力で初代部長には国語の菊地先生が就任された。ここに麻布学園山岳部の前身、麻布中学校山岳部は生まれたのである。昭和21年の6月、何日だったかは忘れてしまった。

岩燕四号までの部報が不備であるから、一、二、三号の記録を略述しておこう。

昭和21年6月 

  • 山岳部創立。主将中村太郎、主務馬場義仁。
  • 小仏峠〜高尾山、中村他大勢東京都より軍靴、テントをトラック一台分払下げを受け校庭で販売する。

7月 

  • 岩燕第一号発行
  • 入川谷、中村
  • 三峰〜地蔵峠、中村、坂本、笠原、内田
  • 山中湖合宿調査 中村他
  • 三ツ峠 中村、小川、笠原
  • 川苔谷 馬場
  • 山中湖合宿?富士山、御正体山 中村、他大勢

8月

  • 八ケ岳、桜井
  • 三頭山、中村、坂本兄弟

9月

  • 三頭沢?三頭山、井熊先生、中村、小田、小倉、成瀬、坂本、桜井、笠原、内田
  • 岩燕第二号発行

10月

  • 明神ケ岳〜明星岳、中村、飯島、真野
  • 第一回文化祭に参加、コーヒーで儲け、教室でダンスパーティーを開催する。
  • 日原谷〜雲取山、中村、小田、小倉、成瀬、飯島、小川、笠原

11月

  • 大山〜ヤビツ峠、笠原
  • 四十八瀬右俣、中村、成瀬
  • 馬頭刈尾根〜大岳〜鋸岳、中村、小倉、桜井、内田、佐近、広田

12月

  • 丹沢主脈、中村、小田、成瀬
  • 氷川〜大菩薩、中村、小田、成瀬、桜井、小倉、内田

昭和22年1月

  • 氷川〜三ノ瀬〜将監峠〜雲取山〜氷川、中村、小田
  • ヤビツ峠〜三ノ塔、中村、小田、笠原

2月

  • 高水三山〜棒ノ折、中村、小田
  • 戸倉三山、中村

3月

  • 岩燕第三号発行
  • 小下沢〜景信山〜高尾山、中村、北川、後藤

[この文は、1947年度総括の頁につづきます]


写真は奥多摩・七つ石神社にて。撮影:飯島文男・提供:小田薫




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