[chronicles]




1946年度〜1948年度をふり返って

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中村太郎




[1946年度の回顧からのつづき]

第一回目の会合の模様を書こう。前にふれた様に下準備ができあがったので、いよいよ部員募集をすることにした。皆んなで手わけして各クラスの黒板に山岳部ができたから入部希望者は集れと書いてまはった。さてその当日会場に当てられた教室の中ではさすがのさむらい共も落付かず机の上にあぐらをかく奴、教段の上を往復する奴、どんな奴がやって来るかと首を長くして待っていた。ところが待てど暮せど新入部員はやってこない。

第一回の光暉あるミーティングは見事に肩すかしを食ってしまった。五年生がちょっとのぞいたが四年生の仕わざと判って尻尾を巻いてしまった。一同がっかりしたが実行力旺盛な寺島の提案でハイキング会で部員を釣ることにした。これがまた案外の馬鹿当りで百名以上集り、今度は教室からはみ出してわいわいやる、うるさいし暑いのですっかり参った。実際にハィキングに行ったのは八十何人かでいくらかへって助ったが、それでも浅川の駅で二列に並ばせ、番号をかけさせまるで教練そこのけのさわぎで、寺島など小隊長気取りであった。この時の写真を見ると吉田、笠原、内田、仲谷などがちやんといる。仲谷が一年生の時であった。部員募集にハイキング会を催すのはもう恒例になった様だが、そもそもの始めはこの時なのである。最初の山行は無事に終了し部員も予想以上に集ったか、山行の性格が私や小田などが考えていたものと異なり寺島達と別れる原因となってしまった。岩燕の第一号の中で「一言にして云へばこの山行は山岳部としては適当でない」と私は大いに憤慨している。その頃は藤木九三のアルピニズム・オーソドキシイなどにかぶれ、ひとかどの正統派を気取っていたのだから当然だったのであろう。いはば山を楽しもうと云う寺島達とわかれたので、山岳部は私、小田、小倉、成瀬を中心として戦斗的なものになって行った。

なんだかんだと云っても山登りが面白くてたまらないものだから実によく山へ行った。

そしてずいぶん突拍子もないことまで平気でしてのけた。社会状勢が極めて悪かったには違いないが、そんなこと上りも上から圧える者がいなくて我々の性格が強かったためであろう。今でも冬山となると個人装備をそろえるのに苦心しているが当時ははく靴がなかった。まさか下駄でも登れまい。衣服も食糧も着るだけ食べるだけでやっとの時代である。自分達でなんでもなんとかしなければ好きな山へ行かれなかった。思い出すままなんとかした例を挙げてみよう。部員の父兄のコネクションを頼りに都庁に談判して、陸軍で使った軍靴と携帯用テントを払下げて貰うことにした。トラックに山の様に物資を積んで意気揚々と学校の中庭に乗り込んだ。わんわん集った連中を整理して、先生は優先的に、残りは生徒に売ったがほんとうに瞬く間に売り切れてしまった。この軍靴とテントはウドン粉と交換するなど物々交換の種となった。こう云う操作をして山へ行く最小限の用意はできあがるわけだ。小田が「夏休みプランは多し米はなし(岩燕一号)と歎いている様に登りたい山ばかり多くてその準備が大変だった。


岩燕の名前が挙ったので部報第一号に触れておく。山中湖合宿を紹介する目的で21年7月1日に発行されている。藁半紙一枚を二つ折にして両面を使用し、ガリ版で印刷したものである。巻頭書として菊池部長が「大古にして大新なるもの、それは自然のもつ力であり、之を感ずる人間の魂である。」だから「自然との大調和」こそ「混迷せる現在に於ては、特に必要である。」と書かれている。その他、山中湖の夏の合宿紹介などがある。「費用、交通費約三十円、食糧、米約二升(粉ならば八00匁)、副食物、調味料若干」とあり、十年の推移を思はせる。

さて、その山中湖の合宿は大変な人気で参加人員に制限を加える程であった。しかし合宿の成果は「山へ登るなら山岳部以外で」と云う決心になったと思う。なにしろ富士へ登ったのはよいとして、「我国の伝統的な習慣に従う」と云う理由から、わざわざ眠いさかりの真夜中に登った。そうして降りは頂上から山中湖を目指して真直ぐに降った。頂上から見た小富士が真中に見え、「きっと、ゴルフリンクだろう。横切ったらさぞ気持がよかろう」と親玉連の意見が一致したからである。お蔭で死にそうな目にあったが、なんとか山中湖に辿り着けた。

或る朝のこと、起きあがろうとすると身体の節々がガサガサなる。これは多分油ツ気がきれたからだと思ったが、さしあたって油っこい食べ物がない。ふと眼をやると庭の栗の大木にうまそうにふとった毛虫がもそもそいる。よし、これだと粉をまぶして揚げて食べた。東洋史の戸田先生はこの時以来毛虫のテンプラは好物の一つになったと云うことである。

合宿が終り東京へ帰ることになったが、ただ帰るのでは、もったいないから一山かせいで帰ろう。ということになった。御正体山へ登ることになったが、登山口まで麻布の寮からでは、湖水を半周しなくてはならない。歩くのは山径でと、登り口まで舟で渡ることにした。ちょうど寮の前に乗り捨ててあるアメリカさんのヨットを一寸と拝借する寸法である。明け方の湖は真に気分爽快である。霧の一面に立ちこめる湖面をヨットは滑って行く。向岸まで後少しと云うところで、ホテルのアメリカさん達の気が附くところとなり、モーターボートの追跡を受けるはめになった。捕ったら最後、沖縄へ連れて行かれて強制労働だ、いや一応海外へ行けるのだから、いさぎよく捕ろう、などと強がりを云ってはみても、まず逃げるが勝ちと帆だけでは頼りなくなって底板を櫂に懸命にこいだ。浅くなるのを待ちかねて、じゃぼじゃぼ水の中に入り危機一発で逃げおおせた。今から考えると、あの時捕っていれば、もう少し英会話がうまくなったものと心残りである。

夏が終り秋になると第一回の文化祭が催された。主演男優賞を貰ったフランキー堺が活躍した時である。吾々はコーヒー屋を開いた。コーヒーの豆を小倉が家から持ち出して来たのだから、元はただで丸もうけである。その日の午后、小倉のおばあさんがお出になり、何がしかのコーヒー代を払はれたのには流石に具合の悪い思いをした。

[1948年度の回顧へとつづく]
岩燕第一号はこちら
櫻井晴二による山中湖紀行はこちら





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