早崎 僕らの頃は水練と剣道と柔道。それなのに何故僕が山岳部に入ることになったかというと中三のときに山岳部主催の映画会があって「絶剣北鎌尾根」という映画が上映された。製作は福原フィルムス。これが格好良かったんで山岳部に入っちゃったわけです。僕らの代は凶作で、はじめ高一の4月に9人、これが9月までに一人減って8人、冬合宿で二人抜けて結局最後は4人だった。
どうしてかというと、これが殴られ蹴られだけの人生。徹底的にやられた。ケツにタコができたくらい。夏だったが0Bがピッケルでなく丸太をもってくる。ズボンが破れたね。誰にやられたとは言いませんが、ね、近藤さん。
近藤 いや俺はただ、お前たち遅れるから頑張れよ、って励ましていただけ。
早崎 その頃は高二で終わる建て前だったけど、何故か僕のときは高三になっても映画出演(笑)。高三も全員現役で福原フィルムスの映画作りに駆り出された。これが現役10人にOB10人というとんでもない合宿だった。とにかくOBの食料も担がされるわけだから大変な荷物だった。
溝口 40キロはありました。その上ピッケルの代わりに丸太ですから。今だったら間違いなく訴えられますね。近藤さんなんかはきっと塀の中です。
早崎 とにかく荷物が重くて参った。灯油缶を背負っていた奴なんかこれが背中にあたってシャツは破れる、直に背中にあたる、漏れた灯油が背中の傷にしみ込んでグチャグチャになるというような具合でひどい目にあった。双六池で洗ってやったけどね。
溝口 同じ年に東京農大のワンゲルがしごきで大問題になった。
早崎 とんでもない合宿だったけれどもとても嬉しかったのは涸沢からヨタヨタで上高地に下りてきた時に中学生がテントを張って待っていたことだね。中畑先生が全員連れて、そら上級生が下りて来るぞ、ということで皆待っていてくれたね。
近藤 この映画は日本全国を行脚してAACは有名になりました。
早崎 それからあの頃は何月には何処へいってという歌があった。5月はマチガ沢か芝倉沢。6月は丹沢という具合で、その頃の代はだいたいその通りに山へいっていた。その歌にもあったけれども11月は毎年富士山、これがいちばん辛かった。何が辛いかというと登りは富士吉田から歩きで、ずっと歌を歌わされたわけ、一合目から。あちこちで怒鳴り声がきこえたね。
脱走といえば薬師で一人逃げたのがいた。四日目にバテちゃった。日本海を目指して逃げたらしい。後で本人に聞いたら死んでもいいと思ったと言っていた。逃げるとしたら五色だろうとかね、色々言ってたんだけど。
近藤 槍で電話したら家に帰っていた。
早崎 東京に帰ってから僕は彼のお袋さんにおこられた。帰ってきたら玄関で倒れて二時間眠ったままだったそうだ。高一の時の話。
さっきの話に戻ると映画会で、かっこいいなあ、と思うと次は奥多摩ですきやきを食わせる会があった。上手くできてた。二回目の山行はまた奥多摩。この時は貨車に乗ったように思う。