tome VIII - AAC50年の歩み 2


 

座談会「AACの50年をふりかえる」(1)

平成8年8月26日


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山岳部隆盛期へ ー鹿島槍東尾根春合宿ー

ー 近藤さんの代は小倉さんと一緒に山へ行っていたんですか。

近藤 小倉さんはOBとしてね。現役で一緒だったのは26年の笠原さん、後藤さん、内田さんとかその下では森田さん、それから一年先輩では内藤さん、青木さんなんかと山へ行っていた。だいたい部員は10人くらいだったかな。

青木さんはマラソンのトレーニングに熱心だった。これが嫌で嫌でしょうがなかったから、何とかトレーニングを逃げようとするんだが授業が終わると教室まで迎えに来て、「おい、行くぞ」てなもんで、これには参ったね。

小倉 あいつはちびなのに足が速かった。

近藤 30年組は6人いて、神原、水野、大迫、新家、それから荒垣と僕。仲谷さん、荒木さんとかの先輩たちは屋上からザイルで降りるのが好きで、マラソンしてきた後はいつもこれだった。学校は禁止してたから伊熊さんとか吉川さんとかこわい先生に見つかると怒られて大変だった。

入部希望者を募ると入部を断るくらい集まったね。人気があったから部費は二番目で11万円。当時の初任給が一万円から一万五千円くらいだったはずだから今の金でざっと百万円くらい貰っていた勘定になる。

ー 他の部はどこが人気があったんですか。

小倉 野球部とアメフト。タッチフットだがかなり人気があった。22年の頃は山岳部の部費は四千三百円か四千五百円だったと思う。野球部、演劇部は一万円くらいだった。


近藤隆治

近藤 生徒協議会というので部費を決めるんだけど、山岳部は命がけだ、とか言ってたくさん貰ってたね。僕らの頃は朝鮮戦争で米軍の放出品の装備を随分使った。ゴジラ靴と呼んでた編み上げの靴とかシュラフとか。シュラフの放出品には血のついたのもあった。

先輩たちも熱心で当時はヒマラヤ登山が始まってたから、仲谷さんとか後藤さんが小倉さんに頼んで早稲田の関係でコーチをお願いできないかということで、マナスルの日下田さんとかが週に一回くらいコーチに来てくれた。部員もたくさんいて一時は30人くらいの頃があった。

そんな雰囲気で難しい所を目指すために技術を磨くんだという気持ちが強かった。今思うと随分無茶なことをという気もするけれども、中村さんが「おまえたち、鹿島槍の東尾根をやってみろ」と言われて、やってみようということになった。なにしろ3月に高校生が鹿島槍の東尾根をやるというのは前代未聞の話。小倉さんは危ないという意見だったが、29年の3月に総勢15、6人の合宿を行うことになった。とはいうもののテントがない。それでこれは小倉さんに頼んで早稲田のを貸してもらうことになった。それから冬山だからマットがなければ寝られない。当時は豚の毛で作ったマットだった。

小倉 そうそう、ヘアロックと言うやつ。

近藤 テントの設営訓練を屋上とか校庭でやったりした。まあとにかく山登りへの取り組み方も含めて真面目だったよ。今と違ってザイルはナイロンではなくて麻だから、これが凍ってしまって畳めない、テントともごわごわに凍ってザックに入らないし重い。だからザックは御神輿みたいな状態。これにゴジラ靴だ。

他にも南アルプス全山縦走とか北では後立山とかに挑戦した。山岳部は花形だったね。その頃から東洋英和に憧れてたからエンジ色のシャージを作ったりしてね。

溝口 コール天のですね。

近藤 南アルプス縦走の時は本当の脱走が出た。朝起きたら居ない。慌てて追いかけるんだが逃げる方も必死に逃げるからつかまりゃしない。三島の時もあった。東京に帰ってから逃げた部員は退部処分ということで学校の中庭の掲示板に退部命令を張り出した。

南谷 厳しかったんですね。

校舎に時計塔があった頃。
小田薫撮影(1947)
近藤
 そりゃそうだ。山岳部だけじゃなくて学校全体が厳しかった。まだ軍国調の雰囲気があったからね。登校の時にはマフラー、手袋禁止。朝、校門の所で見ている先生がいて見つかると取り上げられた。土足で上がったりしたら大変で吉川先生なんかは屋上まで追いかけてきて、こってりやられた。

山岳部に指導に来た先輩も恐かった。早稲田流というのか予科練タイプというのか、とにかくおっかなかったね。山の中ではもっと凄かったね。イモ(注:35年卒片桐氏のこと)がやられたね。三島の代も随分やられたね。今のいじめなんてものじゃない。でも不思議と部員は結構多かった。橋本龍太郎はその当時は部員ではなかったんだが、しょっちゅう山岳部の部室に来たりして我々のまわりでうろうろして一緒にやっていたね。彼は俺たちがザイルで屋上から降りるのを真似して時計塔の時計の針を足で突っついて時間を変えてしまった。せっかくだからと針のうらに名前を刻んだりしてね。もしかするとまだ時計の裏に橋本龍太郎と残っているかも知れない。とにかくそういうお茶目なところがあって先生につかまったりしてた。ただ悪戯ばっかりしてたわけじゃなくて、山岳部の部員ではなかったけれども前田君が吊尾根で死んだ時に真っ先に飛んでいったのは橋本だった。当時、何故山が好きになったんだと聞いたことがあるが、父上に槍に連れて行ってもらってから山が好きになったと言っていた。

.橋本龍太郎麻布学園PTA文化講演会「夢を持て、夢を追え」'99/11


小倉
 ザイルといえば最初の部費で買ったのがザイルだった。22年の夏のこと。12ミリで東京製綱の30メーターだった。すぐに使ってみたかったけれども、いきなり屋上から下まで降りるのは怖いので、屋上のペントハウスの庇から屋上に降りて試してみた(笑)。今でも覚えているが、まず中村がやってみて成功。よしそれじゃ今度は下までやってみようということになって僕が一番初めに降りた。なにしろ30メーター1本だからシングルでこれが喰い込んで痛かった。放課後すぐだったから生徒がたくさん集まった。裏庭におりた。先生たちも見に来てたね。その頃参考にした本はたしか高須茂か舟田三郎の「岩登り」という題名の本だったと思う。

近藤 山の話に戻ると、個人山行というのはあまり無かったが、一度、神原、水野の二人が週末に奥秩父に行って予定の時間になっても戻らないということがあった。あわや遭難かということで、月曜の朝一番で捜索に向かう準備をした。月曜には英語の試験があったから、俺は喜んで探しに行くつもりで準備していたんだが、月曜の朝になって帰ってきてしまってがっかりしたことがあった(笑)。

その頃(26年から28年頃)は小倉さんの時代とは社会事情も一変していて食料には不自由しなかった。米、缶詰、野菜なんでもあった。でも重かったから合宿の荷物は40キロくらいあったと思う。僕が卒業する頃になってアルファ米が出てきたが未だジフィーズは無かった。



page 1. 出席者・司会
page 2. 山岳部の始まり - 第一回高尾山行 -
page 3. 山岳部隆盛期へ - 鹿島槍東尾根春合宿 -
page 4. 独特の雰囲気の文化運動部 - ピカピカの装備がずらり -
page 5. 映画上映会、すきやき山行、そして山岳映画撮影合宿
page 6. 一日170円の食費 - 完成直前の黒部ダム -



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