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tome VIII - AAC50年の歩み 2
座談会「AACの50年をふりかえる」(1)平成8年8月26日
page 3/6 山岳部隆盛期へ ー鹿島槍東尾根春合宿ー
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校舎に時計塔があった頃。 小田薫撮影(1947) |
山岳部に指導に来た先輩も恐かった。早稲田流というのか予科練タイプというのか、とにかくおっかなかったね。山の中ではもっと凄かったね。イモ(注:35年卒片桐氏のこと)がやられたね。三島の代も随分やられたね。今のいじめなんてものじゃない。でも不思議と部員は結構多かった。橋本龍太郎はその当時は部員ではなかったんだが、しょっちゅう山岳部の部室に来たりして我々のまわりでうろうろして一緒にやっていたね。彼は俺たちがザイルで屋上から降りるのを真似して時計塔の時計の針を足で突っついて時間を変えてしまった。せっかくだからと針のうらに名前を刻んだりしてね。もしかするとまだ時計の裏に橋本龍太郎と残っているかも知れない。とにかくそういうお茶目なところがあって先生につかまったりしてた。ただ悪戯ばっかりしてたわけじゃなくて、山岳部の部員ではなかったけれども前田君が吊尾根で死んだ時に真っ先に飛んでいったのは橋本だった。当時、何故山が好きになったんだと聞いたことがあるが、父上に槍に連れて行ってもらってから山が好きになったと言っていた。
.橋本龍太郎麻布学園PTA文化講演会「夢を持て、夢を追え」'99/11
小倉 ザイルといえば最初の部費で買ったのがザイルだった。22年の夏のこと。12ミリで東京製綱の30メーターだった。すぐに使ってみたかったけれども、いきなり屋上から下まで降りるのは怖いので、屋上のペントハウスの庇から屋上に降りて試してみた(笑)。今でも覚えているが、まず中村がやってみて成功。よしそれじゃ今度は下までやってみようということになって僕が一番初めに降りた。なにしろ30メーター1本だからシングルでこれが喰い込んで痛かった。放課後すぐだったから生徒がたくさん集まった。裏庭におりた。先生たちも見に来てたね。その頃参考にした本はたしか高須茂か舟田三郎の「岩登り」という題名の本だったと思う。
近藤 山の話に戻ると、個人山行というのはあまり無かったが、一度、神原、水野の二人が週末に奥秩父に行って予定の時間になっても戻らないということがあった。あわや遭難かということで、月曜の朝一番で捜索に向かう準備をした。月曜には英語の試験があったから、俺は喜んで探しに行くつもりで準備していたんだが、月曜の朝になって帰ってきてしまってがっかりしたことがあった(笑)。
その頃(26年から28年頃)は小倉さんの時代とは社会事情も一変していて食料には不自由しなかった。米、缶詰、野菜なんでもあった。でも重かったから合宿の荷物は40キロくらいあったと思う。僕が卒業する頃になってアルファ米が出てきたが未だジフィーズは無かった。
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