tome VIII - AAC50年の歩み 2


 

座談会「AACの50年をふりかえる」(1)

平成8年8月26日


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ー 本日はお忙しい中をお集まりいただきまして有り難うございます。今日の趣旨は既にご存じの通りですが、初めに座談会の進め方についてご提案したいと思います。今年で我々山岳部は50年、つまり半世紀の節目を迎えるわけですが、この間に世の中の移り変わりと呼応して山岳部の活動も大きく様変わりしました。例えば登山の装備、食料、山までの交通、山小屋の様子などは小倉先輩たちが部を興された頃からどのように移り変わってきたのか、あるいは合宿や月例山行と個人山行とのあり方などもかなり変わってきているのではないかと思います。今回50周年の一つの区切りとして、こういった辺りを『岩燕』の中に記録しておきたいというのが一つの趣旨です。また山岳部の者だから合点がゆく話、例えば部員の勧誘の苦労や、いつの世代にもいる変人部員のエピソードなど、色々と面白いお話しがうかがえるのではないかと期待しております。そうした山岳部と社会や学校生活の変遷を中心にしてお話し頂きながら現役部員へのメッセージをお願いできればと思います。では小倉先輩からよろしくお願いします

山岳部の始まり ー第一回高尾山行ー

小倉 僕らが山登りを始めたのはまさに終戦直後の何にも物がない頃。戦時中の入学だから勤労動員で初めの一年半くらいしか授業を受けられなかったというような時代だった。中三の8月に終戦を迎えたわけだけれども、まともに授業が始まったのは昭和21年、四年生になってからだったと記憶している。

その頃は今みたいに高い建物が無かったから屋上に上ると山が見えたんだよね。奥多摩とか丹沢とか、もちろん富士山も良く見えた。悪い奴は煙草を吸ったりしてた。それで休み時間に屋上に集まってきた連中で「これからは山登りができるなあ」なんてことを話していて、だんだん「山岳部を作ろう」という話になった。それが山岳部の始まりなんだね。昭和20年の冬だったと思う。僕らが四年生になって、初めのうちは五年生もいたんだが、四年生に気圧されたのかどうか分からないが、いつのまにかいなくなって僕らが一番上という形だったね。僕は中村太郎と同じクラスだった。

戦争が終わって生徒の部活動が一斉に生まれ始めた頃で、当時は色々な部ができつつあった。活気があったと言ったらいいかも知れない。演劇部なんかも人気があったね。山岳部を作るといって説明会をした時には教室に入りきらないくらい生徒が集まった。

それ以前にも少人数で山へ行き始めてはいたんだが、部としての第一回の山行は21年6月の高尾山が最初で、これには百数十人集まった。当時の駅は高尾ではなく浅川と言った。カーキ色の学生服にゲートル、国民帽型の学帽を被って「気をつけ、二列縦隊前へ進め」なんていう軍隊スタイルだったね。

装備の話をすればさっきも話したようにとにかく物がなかった時代。毛布一枚ないというような状態で、山へ泊まりがけでゆくこと自体困難な時代だった。奥多摩日帰りくらいがせいぜいだった。

早崎 22年頃というとまだ外地から復員してくる兵隊さんがたくさんいた頃だからね。


小倉茂暉

小倉 だから靴は軍靴の払い下げ。いわゆる登山靴風のをはいてたものは一人もいなかった。他の道具にしても何にもなかった。確か星君がおじさんのを借りてきたとか言って、ピッケルというよりは、まあピオレットと言うんだと思うけども短いのを持ってきて、皆で「ふーん、ピッケルとはこんなものか」なんて言っていたような具合だった。それから天幕も払い下げの携帯天幕というやっだった。1メートル半四方くらいで布をミシンで縫い合わせたような簡単な代物。これは何かのつてがあってトラック一台分くらい手に入った。山岳部だけではなくて学校で生徒に売ったんじゃなかったかな。

山道具屋は有楽町にバラック風の運動用具店が一軒あった程度。正確じゃないかも知れないが、当時は百円札一枚あると闇市で二人で満腹になった。

溝口 それは大変なお金ですよ。少し時期が違うけれども、因みに昭和13年頃の帝大法学部卒の初任給が120円。

小倉 まあとにかく物がなかったよ。食べる物も昭和22、3年頃は弁当にさつまいも三本なんてのがクラスにいたりしてね。例の自家製パン焼き機でつくったパンとかね。

山岳部に話を戻すと、その年(注:21年)の夏には山中湖の洗心寮に泊まって富士登山をした。たしか戦後初めて寮を開けてもらったと思う。例の山内が売り飛ばしてしまった寮だけれども、当時は藁葺きだった。20人くらいが参加して富士吉田までバス、そこから歩き始めた。帰りは山中湖まで歩いて出た。

翌年になって昭和22年4月の神の川合宿がそれらしい初めての合宿だった。都留から入って二日目に長者舎、檜洞からユーシンヘ抜けた。そのころ五年生になって、その当時としては先鋭的な山登りを一緒に目指していたのが、中村とか成瀬、小田、飯島、真野などだった。

その頃は昭和15、6年頃に出た朋文堂の「東京近郊の山」が唯一のガイドブックだったから、これを見ては次はどこへ行こうと相談したりしていたね。奥多摩では駅員のいない駅、例えば川井とか軍畑なんかで降りて車掌が追っかけて来ないうちに急いで山の中へ入っちゃうなんてこともやった。だから列車の一番前に乗ってね。

金沢 僕も学生の頃やりました。

小倉 縦走形式では23年7月の奥秩父合宿が初めてだった。雲取から金峰へ縦走したんだがこの時はストライキがあって、笠原や佐近たちが将監峠で下りちゃった。下級生では内田だけが残って、結局、中村、小田、内田、小倉の四人が最後まで縦走した。当時の秩父では雲取小屋だけは小屋番がいたけれども他の小屋は無人で将監峠の小屋は崩れかかっていた。7月の雨に降られて、ビニールなんか無いから濡れ放題、小屋は崩れかけてるし上手く火も起こせない、というようなわけで下級生が嫌になっちゃった。

近藤 第一回逃亡事件ですな。後の話でもゾロゾ口出てくるけど(笑)。

小倉 炊事は焚き火で飯盒を使った。朝飯で飯盒一杯飯を炊いて、これを食べてしまってからもう一回昼飯用の飯を炊く。だから時間がかかって大変だった。

ー各自飯盒で飯を炊いていたんですか。

小倉 そう。それぞれ飯盒で自分の飯を炊いた。三回だと一日に一升二合。

早崎 兵隊めしだね。

蒔田 薪は持って行ったんですか。

小倉 現地調達。鉈と鋸は必携だったね。当時は生木はいくらでも切ってよかった。小屋を壊して燃やす奴がいて悪者はそういう連中。

蒔田 小屋番は普段は炭でも焼いていたんですかね。

小倉 当時は商売になるほど登山客がいなかったから殆どの小屋は無人だった。秩父の縦走中に出会ったのも一人だけ。20代の人で向こうからすれば中学生のちっちゃいのがなんでこんな所にいるんだと思ったろうね。山の人口自体が少なかった。

近藤 昭和20年の日本の人口が五千万。食料が無い、装備が無い。無い無い尽しだし、今のような中高年登山みたいなことはあり得なかった。とにかくまるっきり今とは違っていたということ。小倉さんの頃は戦争が終わってまだ2、3年しかたっていない。とにかく物が無かった時代だけども、小倉さんのおばあさんが古着屋をやってらしたりしてずいぶんお世話になった。

小倉 そう、たまたま家が商売をしていたから、山へ持っていく食料とかね、俺が掻き集めてきては山へ持っていったね。





page 1. 出席者・司会
page 2. 山岳部の始まり - 第一回高尾山行 -
page 3. 山岳部隆盛期へ - 鹿島槍東尾根春合宿 -
page 4. 独特の雰囲気の文化運動部 - ピカピカの装備がずらり -
page 5. 映画上映会、すきやき山行、そして山岳映画撮影合宿
page 6. 一日170円の食費 - 完成直前の黒部ダム -



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