[chronicles]



1975年度をふり返って

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三品裕司


「1975年度をふり返って」前半より続く

9月25日秘密会議(高二のみの幹部会で必要に応じて召集)で11月月例で冬の寒さを知り、冬合宿では冬山生活に慣れるという基本構想をまとめた。10月6日には11月鳳凰三山、冬合宿は八ヶ岳となった。10月14日には、指導委員会からの鈴木OB、上羽OBと春合宿も含めて話し合い、鳳凰は雪が多くて難しいのではないか、また八ヶ岳の構想はいいだろうという事になった。11月月例は10月25日の金峰に決め、同時に12月月例を妙義でやる事になった。

9月月例から11月月例までの正味二ヶ月半の間は、平常の活動を充実させていった。係の引き継ぎも順調であったし、ミーティングの時に研究会と称して高二が即席講師になり冬山装備、ピッケルとアイゼン、天気図の取り方読み方等という題で講義を行なった。

そして一番変わった事はトレーニングの出席率がハネ上った事である。特に二学期上半期で全画出席の者が4人もいた。一学期から見ると信じられない位の、変わりようである。夏の合宿の後、中二に活気が出てきたのである。しかし、当然の事ではあるが、まだ部をまとめ引っぱっていくには不安があった。


そして11月月例山行をやる時が来た。来るべき八ヶ岳での冬合宿の中二のための足慣らしが、大きな目的であった。中一は自由参加であったのだが全員来たので、チームワークの養成というかけがえのないおまけまでついた。頂上付近にうっすらと雪がある程度だったが天幕撤収の際の寒さや、北面のツルツル滑った凍り道など、よい経験になったのではないかと思う。また中二の食料係は、この時トンカツ定食を開発した。

そして冬休み。12月月例は中一に個人山行的雰囲気で山の楽しさを知ってもらおうというものだった。中二は自由参加であったが翌日から冬合宿の準備期間なので参加を見合わせたようだった。


林恒生
12月12日、つまり月例の少し前、冬合宿の10日ほど前、林OBから電話があった。

「本日理事会があり、八ヶ岳合宿には反対との結論が出た。」

翌日、高二と仲介の指導委員会との間で、意見交換が行なわれた。それによると、

  1. 八ヶ岳合宿は短期速成の訓練合宿である。今は冬の技術を教えるよりも歩き込ませた方がよい。→消化不良の恐れ。
  2. 冬天生活は二次的なもので、頂上を踏むという大原則のもとに合宿は行なわれるべきである。→緊張の欠けた合宿になる恐れ。
  3. 中二にリーダー教育を行なうよりは全員参加のチームワークを養うような合宿を行なうべきである。→階層分化の恐れ。

だから場所を変更し、中一も含めて合宿をすべきである。という事なのである。


実は以上三点は、高二の間で、八ヶ岳合宿を遂行した際に悪い影響を与えるのではないかと考慮していた事と同じなのである。しかし、何故あえて八ヶ岳合宿を計画して来たのか、それはこの時期に、ある程度積雪のある山へ行き、そしてそこに何日かいる、という事が、彼等が将来リーダーシップを取る段になっての自信と意欲と、そして山に対するあこがれ以上のものに成り得るとの確信があったからである。

そして、もう合宿準備は始まってしまったのである。理由はどうあれ今から合宿地を変更する事は自殺行為に等しいし、その方が後々どれだけ悪影響を残すか計り知れない。


そこで理事会と直接交渉し、第三目的であった硫黄岳登頂を第一目的にし、近いうちに中一、中二いっしょの山行をするという事で八ヶ岳合宿をそのまま遂行する事になった。合宿は無事終了し、中二は初めての事もあって失敗ばかりしていたが、

「雪上訓練は楽しかった。硫黄アタックの時のはりつめた気持、身がひきしまるほどの寒さなど得がたい経験をした。」
「合宿中は冬山は堅苦しいと感じたが、いつの間にかまた行きたくなってしまった。」
「下りのキックステップはおっかなかったが、ラッセルはいくらでもやりたい。ベルトを忘れたのでズボンが……。」

という感想を寄せてきた。

家庭の事情で参加できなかった中二もいたが中一も含め全体的に体力、技術、意欲が向上、これなら4月からは大丈夫というほどに成長してきた。三学期はチームワーク養成を目的とした低成長へと切り換るのである。


2月月例は山の楽しさを知りその中で連帯感を養おうというものであった。もうこの頃までに、中二は自分達だけで山行準備が出来るようになった。未だ甚だ能率は悪くはあったが。

係は既に中二が主体となりあとは春合宿を待つばかりとなった。そのような中で、2月8日、高二、中二、OB会との間で来年度の方針について意見交換をした。中二からは

  1. 多種多様の山に登る。
  2. チームワーク強化に努める。

の二点が出された。また、高二がいなくなるため、指導委員会がより一層現役と接触していく、平野先生が必要に応じて相談役になって下さる等の提案が出された。


実質的な引き渡しはリーダー権を残して全て完了し、春合宿が始まった。場所は去年と同じ丹沢である。去年あるOBに春合宿は丹沢だといったら、その人はどんぐりまなこを真ん丸くして、

「エッ丹沢かい!」

と驚ろかれたようだったが、どこへ行くのかが問題なのではない、行ってなにをするのかが問題なのである。


このようにして一年間を振り返ってみると中二は、かなり多くの事を身につけねばならなかったようである。OBから何度かいわれた。

「今からあせってつめ込むよりも教育は来年OBにまかせてじっくりやったらどうだ。」

悪くすればつめ込みになる事くらいは充分承知している。しかし僕らがOBになってから事を始めたのでは遅いし、中途半端で、不完全なのである。僕らはOBとしてではなく、一緒に行動する上級生であるうちに、彼等に僕らの築いてきた何分の一かでも確実に伝えておきたかった。なぜならOBは実質的な部活動とは接触してないわけであるから、同じ事柄もOBからいわれるのと上級生からいわれるのと全く違った受け取め方にさえなりかねないからである。だかち僕らは、できるだけ彼等と接触し、彼等をわかろうとしようとしたし、またそういう上級生であるよう努めた。


来年度、彼等は中三になる。いろいろな事を教えたとはいえ、実際に山に入ってしまえば中三の判断力と中三の経験しか頼るものはないのである。まだまだ先は長い。来年一年間は、高望みをせずに、今迄身につけた様々な事柄を確実に自分のものにして、翌年、翌々年への足がかりとして欲しい。そして僕らの時代は暗黒時代であったと云える日が来るように.....(1976年記)




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text by y.mishina. photos by y.mishina & n.takano.

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