[chronicles]



1968(昭和43)年度をふり返って

松宮幹彦



我々が部の運営を引き継いだのは、年度報告にあるように、高一になった時で、当時としても変則的な事であった。振り返って考えて見ると、未熟な我々にも何とか山登りができたのは佐藤(ヒモ)さん、藤原さんといった、学校との折衝に当って下さったり、合宿に同行して直接指導して下さったOBを始めとして、先輩諸氏の援助があったお陰だと思う。

こうして我々は二年間もしたい放題のことをさせてもらった訳なのだが、一年目は、何とか6人そろった高一同士、登りたい山にぶつかってゆくというやり方で、年間計画らしいものもないまま、旧来通りの夏、冬、春の大合宿をともかく実行することに全力を尽した。このような山登りが高校生に適当であったとは、今でも思ってはいないが。

最初の大合宿である夏合宿には、日本山岳協会制作の「山から悲劇をなくそう」という映画に出演しないか、というお話がOBの近藤さんからあり、白馬から剣まで一切自己負担なしで合宿できるという好条件に、皆喜んで協力させて頂くことにした。12日間にも及んだこの山行では、何より撮影が第一であるから、全体に行動が流動的で、小屋なども使用して、合宿の厳しい雰囲気は薄かった反面、高橋照氏のような秀れた登山家に親しく接することができて、思い出の多い山行となった。こちらは重荷にあえいで、這いつくばって登っているのに、撮影の都合一つで「そこをもう一度登りなおして」などという全く非情な場面もあったが、後になればこんなことも、かえって懐しく思い出される。一つ残念なことは、折角恐い思いをして登り、我々にとって数少ない3000米峰であった剣の標高が、その後2998米に訂正されてしまったことである。

二学期になると、部室がたまり場になって団結も堅くなってきたようだったが、奥秩父で三隊に分かれて行なった集中山行が完全に失敗し、隊の一つは下山が一日遅れてしまい、家族や先輩の方々、そして学校にも大変な心配をかけてしまった。以来この方式は二度ととらなくなった。

この年の活動で忘れられないのは、冬用天幕を購入するため数年来続いた孔版屋へのレポート印刷注文を止めて、自分たちで原紙切りから印刷、製本までやったことだ。コピーという便利なものも今日ほど普及していなかった当時のことで、いつも徽臭くて体操服の汗のにおいのしみついた部室が、この時だけ紙とインクのにおいに満ちた印刷場に早変わりした。私自身この種の仕事が好きだったのが幸いしてか災いしてか、徹夜で原紙を切った記憶がある。他の連中も、慣れない仕事に、インクで真黒になりながら、ともかく総会の時刻までに百何十部かを仕上げたが、面倒が多くて、出来上る頃には、もう二度とやるものかと思ったものだ。けれど、完成品の山を見て内心秘かに喜びを感じ、なかなか良くできたと、一人悦に入ったりした。他の連中も同じような事を考えていたのだろう。このレポート作り、懲りもせず再度やったのだから。

冬山の仙丈は好天に恵まれ、新しい天幕で快適な山行となった。いまだ下級生が一人もいない大合宿だったが、かえって我々の結束は強まった。

一年目の最後を飾る春合宿に八ヶ岳を選んだのは三学期に入ってからのことだったが、この合宿も入山から予定をすべて消化するまで好天つづきで、存分に春山の気分を満喫できた。嬉しいことに、この合宿から一年下の部員が参加するようになって、二年目には多彩な山行を組めそうな望みをつなぐことができたのである。

(1976年記)




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