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[chronicles]
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1969(昭和44)年度をふり返って
松宮幹彦 |
毎年春に催される文化祭が、部員の少ない山岳部にとって、宣伝と部員獲得の絶好の機会であることは、昔も今も変わりないだろう。この年の文化祭には、山に出かけたい気持も強かったが、何よりも部員確保が優先という訳で、教室に勾配をつけた山道を作ったり、合宿やトレーニングのスナップ写真を展示したり(準備の段階で思わぬトラブルもあったが)、精一杯やった。しかし、新入部員の獲得という最大の目標は達せられず、高二・四名、高一・二名、中三・一名のまま、新年度の計画を立てたければならなかった。 |
この年の特色としては、あまり人の入らない山域とか、麻布の山岳部にとって未知の山に積極的にとり組んだことがあげられると思う。年度目標を霞沢岳に決めた春の段階から、夏の赤牛岳、秋の大菩薩北面の沢、冬の上州武尊などがそれである。未知の山であればあるだけ、準備には一層の周到さが、実地ではより多くの慎重が要求されるわけであるが、我々の山行を振返ってみると、この原則に忠実であったとは云い難い点を強く感せずにはいられない。それまで、比較的安定した天候、平年並みの積雪、整備された登山道など、条件に恵まれた登山を当り前の如く繰返していた我々に、これらの山行は、登山というスポーツの奥深さを改ためて教えてくれたものだった。 |
夏季合宿は本文に詳しいが、烏帽子から笠への一週間には、ブナ立尾根の辛い急登や、岩苔乗越での素晴らしい幕営、笠からの何とも長いが一気に駆けおりた下り、そして槍というおまけ等、思い出がいっぱいにつまっている。 |
この合宿の後、夏休み中に、春合宿に備えて霞沢岳から沢渡に落ちている長大な尾根を偵察した。途中水場がないので、ありたけのポリタンに水20リットルを用意して、徳本峠まで縦走する計画で出かけたのだが、尾根の上は完全に人跡未踏、上部に行くに従って厚くなる薮に手こずらされた。結局、藪こぎとペナントの設置とに終始し、森林限界から出ることができず、目前のピークを山頂のすぐ手前のピークと誤認して下山してしまった。この誤認が、香合宿で登頂失敗の一因となったことはいなめない。49年5月、徳本峠から霞沢岳に矢部氏等と登った鈴木は、頂上から俯瞰したこの尾根について、夏の偵察で登ったのは尾根の二分の一、春の合宿でも四分の三を登った程度と語った。 |
初秋、我々は大菩薩北面の鞠子川と大黒茂谷の遡行を企てた。沢筋で二泊したが、大黒茂谷へまわる道が完全な廃道になっていて、主目的は達せられなかった。この時、小室川谷の河原で、豪勢な焚火を囲んで、静寂を破る滝音と月光に包まれた不思議な夜を過した。 |
更に冬合宿のため、既に降雪のあった上州武尊に偵察に出かけた。この山行でも、一寸した珍事件が起った。荒れた避難小屋で晩飯を作っていると、小屋の周りの闇の中を、動物の歩き回る音に気づいたのである。笹をけ散らすその足音とうなり声がかなり大きいので、こわれた戸板を中から押さえて、一歩も外に出ずに不安な夜をすごした。あれは冬ごもりの前に餌をあさりに出て来た熊もしくは猪だろうか。 |
当の冬合宿には、突然の不幸があって、私は参加できなかったが、麓から山頂までつづいた湿雪のラッセルと天候不良という悪条件の中で、OBの全面的な協力を得て、ともかく、主峰の登頂は果したそうである。 |
来年度のリーダー・シップをとる高一でも、合宿にコンスタントに参加する者が無く、春合宿と、来年度の活動に不安が残っていたので、二月には北八ッに出かけた。好天には恵れたものの、黒百合平の登りでバテてしまう者、凍傷を負う者などいて、高二との差が予想外に大きいことが明らかになるばかりだった。 |
春合宿には三名の高一が参加できることになって力強かった反面、高二では二名が不参加を申し出た。霞沢のような大きな山に向って不安は大きかったが、夏の偵察で最大の敵であった薮は雪にうもれて問題にならないであろうし、最後の合宿ということでもあり、とにかく、全力をつくして当るしかなかった。 |
現地は例年以上の積雪だった。沢渡の手前ではガケ崩れが発生していた。結局、森林限界の稜線で雪の状態が悪かったことが直接の原因となって、頂上を踏めずにおわった。頂上へあと僅かという所まで達しながら、そんな自然条件にはばまれて、一所懸命ラッセルした道を下らなければならない気持は、何とも云えず暗く重かった。下山が決定したその晩は、準備段階からの行動のチェックに始まり、はては高校山岳部のあり方に至るまで話し合った。もとより、山で冷静に結論を下せる問題ではなかったが。 |
こうして四月になり、我々は二年間務めてきた部の運営を新高二に委ねることになった。今から考えると、ある意味で我々の身勝手な登高意欲にふりまわされて、充分な経験を積む暇もないうちに、慣習によって部を任せられた彼らも気の毒だったような気もするのである。 (1976年記) |
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