[chronicles]



1956年度後半〜57年度前半(昭和31年9月〜32年8月)をふり返って

三島秀介



昭和31年度、部が創立されてざっと十年目。その間順調に発展の道をたどってきた事は既に読まれた通りである。そこでその十年目なる我々の代を持ってこの十年回顧録のしめくくりを綴ってみることにする。

我々の任期を終えフリーな立場でこの一年を考えてみると、あれもこれもすればよかったと後悔と同時に非常な苦痛も迫られることが毎々ある。確かに少々実行力が足りなかった事はうかがえる。しかしこの事は代々あることであってそれを次の者へ伝え次の者はそれを検討し改善し又実行するということに山岳部としての順調な発展があるのだと思う。

さて4月の新学期が始まると共に共々に山岳部のバトンは事実上渡されたのである。先ず我々がしなければならなかった事は部員の獲得で、特に高一部員があまりにも少ないのには以後の合宿計画を組む上にも少々不安であつた。高一から山岳部へ入るには遅くとも夏山合宿前でなくては無理ではないかと思う。多少なりとも努力を尽したがやはり高一は入らず中学部員を獲得したに過ぎなかった。多くの他の運動部も高一部員の不足に悩んでいたらしい。しかし考えてみると我々の代が一級下の部員を獲得するのは難かしく、どうしても二級下の部員に向けられる結果になるがこの事は我々の前にも起っている状態ではないかと思う。結局高二、即ち部を運営していく代のものは高一は自分達の行動に巻き込み指導の中心を中三に向けるのが良いと思う。他校、特に都立の高校山岳部では実動期間は二年と限定されているのと較べると、麻布は三年又は四年と前者よりも一、二年多く山岳部と云うものを知ることが出来るのであるから一層しっかりした組織であらねばならない。この点我が部として大いに研究すべき事である。

中学部員における山岳部の有り方はスポーツ・アルピニズムがどうのこうのと言うのではなくて、ただ山へ行くと云うそれだけの事が達せられればそれでもって本懐とする所であった。実際なんで山岳部なんかへ入っているのかわからない、いいかげんな者もいた。三年間と云う制約された期間に山に親しみを持つにはどうすれば良いか、それには山を知らなければならないのだが、実際に山へ行く事の少ない彼等にはせめて都会にいる間を使って山に対する興味を持たせる以外には手はない。しかし中には我々が頭をしぼって考えた計画を忠実に実行し公式山行には必ず参加していた人もいた。結局山へ登りたいと云う気持や、そうした所から当然出て来る山への知識欲が部員の心を占めさえすれば三年間であろうが二年間であろうが立派な部員となり得るのである。部員の皆が一致してこうゆう風潮になればしめたものでこの時こそ立派な山岳部の運営が行われるのである。しかしこんな事は必須条件で、実際三年やそこらの経験でリーダー格となり後輩の指導をしなければならないのだから経験以外に出来る限りの知識を身に着けねばならぬのは当然である。従ってこうゆう傾向に部員を導く事は指導の立場にある者の義務である。又中学部員の指導に当って、もう一つ重要な事は中三の夏山へ(及びそれ迄の期間も含む)合宿をいかなるものにするかと云うことである。と云うのは彼等がこの合宿を通して知る山岳部の内容が彼等の部に対する先入観念を植えつけるからである。

この4月から部長は中畑先生に変る。さて山行を見ると、年度計画に従い夏山迄順調に部山行を三回行う。中でも5月の谷川芝倉沢トレ一二ングは中学部員以外ほとんどの者が参加し技術的に大分向上したと思う。OBコーチ団も小倉氏他五名参加という非常に恵まれた山行であった。今後もこの様な山行は伝統的に続けるようにしたいものである。さて大体部員数も高二、九名、高一、四名、中三、五名に落ちつき夏山を迎え例年の如くあのイヤなトレーニングが始まる。今年は穂高へ行くためザイルをひっかついで戸田のロック・ガーデンヘ通ったのもこの頃である。中学の合宿は高校の前に一週間位の縦走合宿を行いたがったが都合上北ア横尾をベースにして放射状登山を行った。今後中学の合宿は特別の事情の無い限り縦走合宿にすべきであると思う。中学と入れ代りに高校の合宿が涸沢で始まる。この時も小倉氏にコーチに参加していただいた事は誠に有難かった。涸沢生活五日間後、小倉氏達と別れて槍を経て烏帽子へと縦走に入ったが足の故障、食中毒の続出、連日の悪天候と惨々な目に遭い、欠点弱点を暴露してしまった事は誠に申し訳ないと思っている。夏山も終り第二学期の始まる前にリーダー会にて後半期の計画を立案する。

9月の総会で実際に我々に役員が引渡されたわけだが、何んだかあまり。パットしない。ある程度部員数もそろい、やって行けそうであったら4月から完全に引継いだ方が良いのではなかろうか。部の運営についてまだ解らない点もあろうが、そうゆう点は部則に決められた通りのリーダー会を確実に実行していれば補えると思う。9月以後3月迄の後半期の計画は遠見尾根合宿を目標としてそれにもとづくものであった。即ち9月初めの遠見尾根偵察に始まる。秋は運動の季節、そこで我々も他の部に対抗して活動の中心をトレーニングに置き各学年のトレーニング係を中心に猛烈に張り切ってやった。月水金の放課後三時からランニングで12キロコース、マラソン・コース等の後柔軟体操、階段登り等で終ってからも皆帰らず富士山に夕日が没する迄屋上でタッチフットかなんかをやり、疲れはてて茜雲に浮き出された山々を眺め、それからソバ屋へ入るといった具合。トレーニングのない日も用も無いのに部室に集って夕暮迄なんだかんだと話し合っていた。こんな日の連続である。後で考えてみるとこの様な事が我々高二部員にある共通した一つの観念と共に自然とチーム・ワークが身についてきたのではないかと思う。部山行も9月、11月の二回、個人山行もこの頃は大分行った。

11月からに冬の白馬スキー合宿に備え中心をトレー二ングから研究会に移し冬山の知識として必要な項目を講師を決めて発表する様にしたのだが、その様な研究会は大体の常識的な事を本で見てきて発表するに過ぎないので、OB会の現役コーチング.スタッフの中から誰か一人が研究会に出席して実際に経験した体験から割り出された細かい事を話す様にしたらもっと効果のある研究会になる事は確かで、トレーニングについてもこの事は通じると思う。我々がOBになったら是非ともそうしたいものである。さて冬山シーズンを迎え冬用ミード型六人用天幕、プリマス・ストーブを購入する。中学の雲取合宿を終え高校の白馬合宿にこの新装備を持って出発。現役九名、OB小倉氏他五名でつらかったが思い出楽しい合宿で、全員雪中幕営の基本と「転んですぐ立つ山スキー術」も習得したことは確かで、これだけでも有意義な合宿であり又この時の素晴しい天候と冬の北アルプスの大観は部員の雪山への情熱を一層高めたことてあろう。又OB現役合同スキー・レース等は今迄の合宿にない面白いものであった。冬山合宿も無事終り1月からはいよいよ春山の準備である。2月の現地交渉と尾根の偵察、行動計画と着々と準備を進め春休みになるといよいよ出発。春型の小春日和や冬型の悪天候の中を遂に懸案の後立山の稜線に天幕を出し北アルプスの厳しさを多少なりとも知り、全員が高所雪中幕営を体験出来て無事合宿を終えることが出来た。中学合宿は雲取山で、我々が中三の時から冬、春のグラウンドを雲取山とし研究的に雲取周辺のコースを歩き、この春をもって全部歩いたことになる。

さてこれで我々一年間の足跡を辿ったわけだが我々の代即ち奥秩父縦走より春の遠見尾根に至る思い出は数知れないものとなった。山岳部生活四年間、そのうち活動出来るのは三年である。三年間で行けた山?我々の代の個人山行を見ると数代前よりは幾分少なくなっているがこれは当然で合宿山行が多く、特に合宿は長期間であるため個人山行の機会が限られるし経済的、家庭的事情も影響してくると思う。

登山も一スポーツである如く厳しいルールがあり我々は忠実にそれを守っていかねばならない。これを破れば反則であり死であることを念頭に置きスポーツ・アルピニズムの真理にもとずいて着実な進歩をとげてくれる事を後輩の人達に願う。スポーツ部が持つ特有な先輩後輩の強い伝統的観念も山岳部としては特に必要であると思う。麻布学園山岳部での四年間に味わった山歩きの素朴なる喜びと。パーティーの中での暖い素直な心のふれ合いの美しさはグッド・オールド・デイと呼ぶにふさわしい思い出として、いつまでも心の奥に残されることであろう。(1958記)

[1956年度前半の回顧は、1955年度の部に掲載されています]





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text by s.mishima, photo by k.oda (03/1957).

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