[chronicles]



1955年度後半〜56年度前半(昭和30年9月〜31年8月)をふり返って

佐藤晃



1955年前半の回顧からつづく

部報の発行にあたり私の担当した年の部の活動を書くことになったが、どうもいっこうその題にあった思い出がない、これも不熟心だった証拠だときめつけられても一言もない。そこでそういうことは止めにして、ここではただ思い出したこと、感じたことを書いてみよう。

山行といえばまず準備である。準備といえば冬の富士合宿の時だったろうか、出発が丁度学期末試験の済んだ日と決ったからたまらない、あわただしく準備して汽車に乗ったまではよかったが、とうとう一人乗りおくれてしまった。仕方なしに終点の富士吉田で次の列車の到着まで三時間余りポカンとしたものである。待っている間に肉の罐詰をおいてきてしまったらしいと気付いていささかあわてたが、それも彼が持ってきてくれた。なんでも学校にテントをとりに行っている間に汽車に間に合わなくなったそうであるが、そこにこの罐詰がおいてあったので持参に及んだとのことである。全くヒヤヒヤものであった。一応品物だけはそろったがこの調子、小さいものの忘れものは数えきれない。考査直後の山行の危険性を痛感させられた。以後こういうことはあまり行われなくなった様である。

次に山に行くまでの汽車についてはいつもながら混むスシヅメ列車にはなれていて汽車の五時間も六時間も前、時には八時間も前から並んで座席をとるのは今も変らないことである。しかし9月の連休における秋の八ケ岳山行の場合には、もはやこの戦術も全く効を奏さなかった。気候はよし連休ではあるし、かねてたまっていた都会人のエネルギーが連休の前夜の座席うばい合いに発散された感があった。この時ほど山に行くのがバカバカしくなったことはない。見送りに来た連中を全くうらやましく思ったものだ。「奴らは畳に足を伸ばして寝られるのにチキショー」列車の中はといったら文字通り足のふみ場もない。二人掛けのイスに四人、所により五人もつめ込まれている。全く身動きがとれない。むろん眠るどころではない。拷間の一種に強い光線を四方からギラギラ照らして眠らせないのがあるそうだ。けれどもそれはまだ身動きが出来るからよい様なものである。ともかく連休の前夜は拷問にかけられ、あげくのはては翌日の重労働である。こりやシベリヤの流刑人かナチスの囚人なみである。山人とはこの苦労を高い費用を出してまで味って人間的達成を得ようと崇高な目的のために毎連休努力している偉人たちである。それはそうとこういうことが都会人と山とをへだてている障害であることに間違いはないから今後我々は産児制限に努め、かつまた国鉄の輸送力増強に努力すべきである。....そんなことを考える他にこの拷間の一夜のつぶしようがなかったのであった。次に歩いている最中のことであるが、同じに歩いても先頭としんがりとで速度が違うという不思議な現象がある。即ち先頭がゆっくり歩いても、しんがりには先頭が急いでいる様に見えるのである。一人で先頭としんがりを一緒にやるわけにはいかないがどうもそうらしい。特に夏の南ア縦走のときには総勢21人、従って先頭としんがりの速度差も最大級に大きかった様だ。大人数で行くときには先頭は特に注意してむしろおそすぎるくらいでうしろは丁度よいのである。

次に昼飯を食う場所について。これはもちろん景色のよい山の嶺だとか水場が最適である。やはり同じ秋の八ケ岳山行の時だったろうか景色のよい赤岳だったか権現岳だったか、その辺で食ったことがあったが元来僕は食うと押し出し式に出ることになっていて、その時も例外ではなかった。ところがその尾根筋は例の連休で人通りが多く、おまけに山はまる裸で小さな這松が一寸土えているだけで物陰が見つからない。一寸陰にいけば急な傾斜で絶壁である。とうとうあきらめたがそれから急にピッチがおちてしまった。押し出し式の習慣をもつものも多いからしてリーダーはそういう所まで気をつけなければならないようだ。(1958記)





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