|
||||||||||||||||
|
||||||||||||||||
|
tome VI - 合宿報告 3
南アルプス縦走(赤石〜北岳)昭和35(1960)年度夏季合宿
page 1/2 [合宿概要・計画・行動記録 1/2] 行動記録 2/2 |
荒川岳頂上までは快調なペースで飛ばした。体の不調な3名をはずした事、食料、装備の一部をはずした事なのもさる事ながら、皆の頭には昨日のヌレネズミが頭に残っているのであろう。 荒川岳頂上に着いた頃から、またぞろ空模様がおかしくなって来た。ここで三島、横田の両OBは、ミヤマウスユキソウの群落のあるという悪沢岳往復をする事となったが、我々はそれどころではない、一気に(?)カールを下りかけた所で、ついに夕立につかまってしまった。 更にここでもう一つのアクシデントに出会ってしまったのである。カールの下りは足もとが悪い上に落石が非常に多い。この落石をよけたメンバーの溝口氏が、よけた拍子に這松に足をとられ、我々の目の前をザックもろともころがり始め、眼鏡も吹飛んで、約15米ほど転落した。一同肝を冷したが、幸いにも腕にカスリキズ程度で事なきを得、眼鏡も度が強くぶ厚い事が幸いしてか、無事に近くで発見する事が出来、ホット胸をなで下した。 ズプ濡れとどろんこになって、高山裏露営地に着いた頃はそれでもまだ昼過きであった。キャンプを設営の後ホット一息して、悪沢往復により遅れた三島、横田面OBも到着し、遅い昼食をとった。 夕食は濡れて燃えない薪に目をシバダタセながら、やっとの思いで作り上げたスパゲッティ。少々シンのある生煮えの御馳走であった。 この高山裏露営地は針葉樹林の中にあり、鳥の声が聞こえ、水場も近くにあるキャンプサイトであるが、天候にめぐまれず残念であった。 |
今日の行程は上河内、烏帽子を越えて三伏小屋までである。縦走らしく、登り下りは多いが、比較的楽に行けるコースとなる。朝食後、例によって麻布体操(これは囲りの寝坊助パーティーの目覚しとなる)を行ない出発。合宿も半ばを過ぎ、皆ペースに乗り、食料もへった事も手つだって快調なペースで登る。 森林帯、ダケカンバの林、這松地帯と、植物の移り変りにも目を向ける余裕が出て来た。稜線に出てからは、その素晴しい眺めにしばし見とれる。すぐ目の前には中央アルプスの甲斐駒、仙丈、更に遠くには北アルプスの峰々が見える。またはるか足もとには広河原の白い河すじが細くうねっている。天気は良いし、歩く道々は展望が最高だし、その上そこここに美しいお花畑が散在しており、夏山登山の醍醐味満点である。途中上河内岳頂上の広い岩原で昼食をとったが、朝の水場でポリタンに水を取る際潜入した山ヒルが、またまたミルクの中に泳ぎ込んでしまい、更にだれかの食器に配られ、食事が終ってもそれをひっとらえる者がいなかった珍事が起った。きっとだれかの腹の中でノラノラと南アルプスの縦走を楽しんだ事であろう。 昼食の後、皆のんびりとしてあたりの景色を楽しんだり、中村OBの昔の山行のエピソード等、奇重な(?)話を聞き、しばし難行苦行を忘れて過した。 今日は昨日までの夕立の調子からいっても、また空模様からいっても、夕立とはオサラバしたようで、午後になっても依然として上天気が続いており、烏帽子岳頂上では360度の展望を楽しんだ。 烏帽子頂上直下の三伏小屋へかけ下った時は、まだ3時30分頃であった。全く本日一日は合宿とは思えない余裕のある一日であった。 |
ここから、いよいよ塩見の登りである。下から見上げると、木影一つ見えない道がウネウネと頂上まで続いている。前を行くパーティーがケシ粒位の大きさでその道を登っていく。我々もとりかかった。実に暑い。人間の体からよくもこんなに大量の汗が出るものか。とにかく上を見ずに一歩、一歩、ただひたすらに足を前に出す。こうしていれば確実に頂上へ近づく事を思いながら……。 塩見の頂上は先着のパーティーが三三五五休憩をとっており、かなり広い石コロだらけの平地であった。眺望は素晴しく、富士、八ケ岳連峰、中央アルプス、北アルプスがクッキリと見え、またすぐ近くには、明日、あさってと攻める間の岳、北岳、そしてその横に農鳥岳が手に取るように見える。日本の十指に入る高峰にやって来た感が深まる。いよいよ縦走もクライマックスに近づいたのである。頂上は、風が強く少々寒くさえ感じる。我々は風をさけ頂上直下のお花畑で食事をとる事とした。 今日の幕営地北荒川へは3時前に到着。ここは峠からすこし下ったダケカンバの散在する斜面で、水場もあり良好な露営地である。 明日の間の岳アタックのため今夜は早々にシュラーフ花もぐり込んだ。 |
井川越まで2ピッチで来た。ここは水場もあり日影もあり小休止には最高である。その上あたりの鳥のさえずりがつかれた我々をいやしてくれる。ここで早い昼食をとり、準備完了。三峰山に取付く。 三峰山の苦しい登りをつめると、もうすぐ目の前に間の岳がある。手をのばせばとどくほどの近さである。ところが意外に苦しいアルバイトを要求される。南アルプス特有の一山、一山が大きく、その間の峠が切込んでいる。今登った所をたちまち下って、その分をまた急坂で取り返さなければならないのである。 間の岳頂上へ着いた時はすでに3時近くになっていた。少々風があり、汗にぬれたジャージーが背中にふれて冷たい。今夜の泊まりはこの頂上直下の雪田を水場としてキャンプを設営するのである。頂上より30米ほど下った所には、8月というのに100米四方位の雪田がある。この際に天幕を張った。 間の岳の標高が3189米であるから、本日の寝所は丁度3000米チョイ上という事になる。さすがに寒い。皆セーターを着、ヤッケをかぶってもまだ寒い位である。水は雪田の雪どけ水がチョロチョロ流れて来るのをすくって使う。水を汲むのにも、それを温ためて(もちろん薪などをひろう事は不可能で、石油コンロを使う)物を煮るにも時間がかかる。しかし3000米の夕暮は実に見事であった。下界が真暗でなにも見えなくなった頃でも、まだここでは新聞が読めるほどの明るさである。それがだんだん夕焼になっていく光景は、とても筆では書き表せない。この夕暮を見ながら夕食をとった。 あたりが真暗になった頃、甲府の町の光がチカチカとして、皆をホームシックにさそった。夜半、風が強くなり、天幕の支柱を直さなければならなくなった。風が出るとなおさら寒さが身にこたえる。皆でシュラーフに頭まで潜り込んで寝た。 |
朝食は雪を溶かしてなんとか作ったが、昨夕の内に水を取っておけば良かったと後悔する。 間の岳から北岳までの道は下り一本と登り一本だけで実に単純であるが、これが例によってスケールのデカさを痛感させられる、モーレツなアルバイトである。下り切って、登りにかかって約三分の一程度行った所を右にトラバースするような道が分かれており、北岳小屋に通じている。この道の途中に故佐倉氏の遭難碑がある。碑といっても高さ30糎〜40糎位の木柱である。故佐倉氏は数年前の麻布の先輩で、当時地歴部の部員であったそうで、単独行でここまで来て夏の雨に当り疲労凍死されだそうである。小屋を目の前にして実に残念な事である。 全員で黙祷をした後、OBより当時の模様、遭難のこわさ等を聞きながら小休止をとる。 |
振りかえると、今日まで歩いて来た赤石岳、荒川岳、塩見岳、間の岳と連峰が続いている。そしてこの10日間の苦しかった事、楽しかった事が思い出されて来る。長かった縦走もこの頂上で終りである。皆感慨をかみしめながら昼食をとった。 ここから先はバットレスを見ながらホーコンの頭を経て、野呂川へ一気にかけ下れば良いのだが、それが思ったようには行かないものである。ボーコンの頭までは順調に来てここからバットレスの壮大な眺めを楽しんでから出発。樹林帯に入ってからが実に長い。下れども下れども道が続いて行くようである。ひざがガクガクに笑い出してやっと池山にたどり着いた。ここで今朝からほとんど飲めなかった水を補給(水場は往復20分ほどかかる〉。第二の昼食をとった。 池山から先は又々長々続く下りである。下の方から河の水音が聞こえるようになってからもまだまだ道は続いた。しかし下る途中、対岸の野呂川林道を走る車の音が聞こえる度に、下界にもどった事を感じ、皆で顔を見合わせて喜こんだものだ。池山から1時間20分かかって野呂川の川べりに着いた時は、足はガクガクになり、皆で河原にすわりこんでしまった。 しかしこれで合宿も終りである。今夜この河原で一泊すれば明日は甲府経由で東京だ。キャンプの設営にも自然に力が入る。夜は大きなキャンプファイヤーをたき、歌を歌い、夜が更けるまで話をした。 |
今日の行程は野呂川を渡り、林道まで登り、後は林道伝いに夜叉神荘まで下れば、そこから先は文明の利器が東京まで運んでくれるだけである。いよいよ今夜は東京である。ところがこの最後の登りでまたまた一かせぎ。最後の最後までシゴカレた。南アルプスとは全く最後までアルバイトを要求する山である。暑い林道を歩き、あの長い長い夜叉神トンネルを抜けると、そこが夜叉神荘であった。これでこの永く、辛く、苦しい合宿も終了したのである。 |
検討会8月11日 目白の南浦園において夏季合宿の検討会を行ない、反省と今後の参考とした。 結論としては、総合的に云って当初の目的である体力養成という点については、ほぼ満足し得る結果であった。更に今後への課題として、
その他貴重なる意見が続出したが、要約すると以上の様な点であった。 |
感想私は当時の記録(レポート14号、昭和35年10月発行)及び私個人の登山日記をもとにこの拙文を書いたが、15年も前の話を書いているにもかかわらず、当時の事を鮮明に思い出す事が出来るのである。その後、同じルートをトレースしながら当時を思い出した事があったとはいえ、かくも鮮明に記憶している事は、その時の感激がいかに深かったかを物語るものであると思う。当時、私は高一とし、それも入部して半年前後の新人であった。先輩、OB、そして同輩の皆様には多分に御迷惑をかけながらの毎日であったと思う。にもかかわらず叱陀激励しながら引張って下さった皆々様には感謝のしようもない。その後の長い登山生活にこの合宿で得た事、知った事が大いに役に立っている。 更に、この美しい景色と大きな山々が教えてくれた事は、現在の私の考え方にも幾許かの影響を与えていると思える。当時の我々現役の力量に比べこの山行はかなり背伸びした山行であったと思うが、これを影になり日向になりカバーしてくださった三島氏を初めとするOB諸先輩には、一同にかわって感謝をする次第であります。(昭和38年卒) |
page 1. 合宿概要・計画・行動記録 1/2 |
home > history > iwatsubame > VI-IX > 1960年夏合宿レポート | ||
prev. |
(C) 2000-2024, azabu alpine club
text by k.samejima. all rights reserved.
ホーム || これまでの活動 || ギャラリー || コラム || 山岳部員・OB会員のページ || 掲示板 || このサイトについて |
岩燕メイン || I-V号 || VI-IX号 || 那須追悼号 || 岩燕総合インデックス || 管理者へメール |