岩燕

tome IV - 合宿報告 5・6 + 雑録 4


 

北アルプス全山縦走

(2/2)
1952年(昭和27年)夏合宿
内藤担・一杉正治・松田裕明・青木義明



page 1/2:合宿概要・行動記録1/2 - page 2/2 行動記録 2/2


7月21日

A班
鹿島・伊藤・内藤

B班
青木・長谷川・笠原・後藤

C班
中村・一杉・高橋・松田・近藤・神原・荒木
白岳〜冷池

発(5:00)〜五龍岳頂上(6:30-6:50)〜キレット小屋(11:40)〜鹿島槍釣り尾根(14:35-14:55)〜冷小屋(18:10)

鹿島槍北峰

晴。

六時出発。一時間十分かかってガスの中を五龍へ登り、始めてブロッケンにお目にかかった。遥か下の谷間の霧の上に我々の影が映り頭の周囲には虹がかかって後光がさしているようだ。手足を動かすと下でも動く。間もなくガスは晴れ上がりブロッケンも消え失せた。

七時半頂上を去り八峯キレットへ向う。五龍の下りからキレットへかけては痩せ尾根の上を行くのであるが、岩がもろく、非常に緊張させられる。

十二時三十分キレット小屋着。まだ番人は居ない。晝食をすまして一時出発。急な岩をよじ登って三十分程行くと有名な八峯のキレットへ出る。狭い尾根が五米位の幅にスパッと断ち切れている。何とか言う猟師がここを飛び越えたとか言う話を聞いていたが、実物を見るとそんなことは信じられない。昔は半日かかって下の谷迄下り、又登り直したそうであるが、現在では針金伝いに簡単に越えられる。

ここからガラガラ石と偃松の中を喘登すること一時間二十分、二時に鹿島鑓吊尾根に着く。ここは大きな雪田があり絶好のオカン場を形成している。

二時五十分南峰頂上。後立山山中劔に最も近附くのがここであり、三ノ窓の雪渓が斜めに大きく黒い岩肌に喰い込み、長次郎、八峯、源次郎尾根とはっきり指摘を来る[ママ]。立山のカールには、べっとり雪がついていて、黒い所の方が少ない位だ。

南峰発三時半、だらだらした下りを五十分で布引岳、五時に森林の中にある冷池に着く。諸々に点在する池の水は、赤茶けて小さな虫がウジョウジョしている。普通だったら見向きもしないようが汚い水だが、山ではこれを平気で呑むのだから自分ながら驚ろく。どうしたわけか仲々火が良く燃えず、飯炊きに手間取って就寝十時。[内藤]




大沢小屋〜針ノ木峠

発(7:00)〜雪渓(7:10)〜針ノ木小屋(12:00-13:00) 15m ばかり降った雪渓で長谷川落ちる。二時小屋着。

晴。

大沢小屋から、十分も森林帯を行くとすぐ雪渓になる。始めはゆるいが、段々と傾斜も増して来る。向うの山稜には、明るい山稜が照っているが、谷間は未だだ。Gさんは、どんどん行ってしまう。Kさんは、まだ見えぬ。雪渓の端に水が流れている。水を飲んで、アイゼンをつける。Kさんが来る。傾斜は、いよいよ急に、雪渓は二つに分れ、右へ登る。峠はすぐ目の上だ。もうすぐだ。ところが、さにあらず。三十分もかゝる。喜びに、来し方を見ると驚いた。よくも登ったと思う。さて、向うと見れば、槍から続く、二つの尾根が、はっきりしている。黒部五郎が黒部川におっかぶせるようにせまる。

涼しい風に吹かれながら晝食をとった後、調子の悪いKさんを残して、はるか下に見える沢へと向う。荷は、再び重い。

雪渓を横断する途中で、向う側から二人連れが来て、待つ。”早く渡らねば”と思って、トップの僕が、あと一歩という所、Gさんが、”おっ”と云う。ピョンと飛んで、下を見ると、Hが落ちている。ピッケルをさそうと県命になっている。半分程落ちた。荷が重いのか、自由がきかぬらしい。”あっピッケルが逆になった”もうどうにもならぬ。勢がついて、下の岩へと行く。背すぢに冷いものが走る。鈍い音を立てゝ、岩につき当る。数秒のうちに起った出来事だ。動かない。

荷をおいて、後藤さんは下へ、僕は上へと行く。Kさんは、呼ぶと降りて来た。雪渓を下っていった。僕にはできなかった。ザックのそばに立って、呆然と下を見ているだけだった。何と無力なのだ。

”だいじょーぶかー”
”うん、もう歩けるらしいー
ザックを上げといてくれー”

湯をわかし、消毒したガーゼで傷口をふく。ペニシリンを塗り、ホウタイを巻く。外傷だけらしいので、まず安心した。

日暮れ頃になると、小屋にも人がおひおひと入ってくる。疲れ切った顔をして。[青木]



〜濁小屋

松本(5:17-5:40)〜大町(7:00-8:15)〜葛温泉(12:20-13:25)〜不動滝(16:15)〜濁小屋(16:30) 〜就寝(20:10)

晴。

松本に五時十七分着。直ちに五時四十分発大糸南線で大町に七時に着く。駅前観光協会にて朝食をとり、買い置きたる米及びA班サポート分の米を得、又B班青木よりの激励の手紙を受けとる。米は各自分担し、サポート分は荒木氏と二人で背負う。

数日前の降雨のためバス不通につき、八時十五分いよいよ出発である。ザックは米が入って倍になったように重く、第一日目とて体の調子は出ず、加うるに真夏の太陽は街をはずれてからの一つの木陰とてないバス道路を汗をたらし歩くのは毎度のことではあるがご苦労様なことである。途中の河原で一息入れて、又歩きだす。

十一時二十分葛温泉に着き糸の引いた晝飯を食う。バスなら一時間足らずの所であるのに、こんなにかゝってしまった。今宵のとまりは濁だろう。

十三時二十分葛温泉発。高瀬川は戦時中からの伐木の為、道も立派で軌道も湯俣温泉まで敷設されて居り、面白くない道ではあるが、陽があたらないのと休んだのとで午前中より少し楽である。三の沢を過ぎるとすぐに不動の瀧に出会う。しぶきは暑くなった体をさましてくれる。

十六時三十分濁小屋に着く。終戦直後登山の学生が強盗に殺されたと云う元の小屋はこの冬雪崩の為に崩壊し、今は発電工事の人夫小屋を仮の小屋として使用して居る。相宿は二人連れと独り。夜は早く寝たが暑かった。[松田]





7月22日

A班
鹿島・伊藤・内藤

B班
青木・長谷川・笠原・後藤

C班
中村・一杉・高橋・松田・近藤・神原・荒木
冷池〜新越乗越

発(7:20)〜爺岳通過(9:30)〜種池小屋(10:05)〜岩小屋沢岳〜新越乗越(13:45)

晴。

ここは森林帯なので小鳥が多く小鳥の啼き声に目をさまされる。今日も快晴。どうやら本格的に夏型気圧配置に落ち着いたらしい。

八時出発、爺岳九時半、種池十時。ここの小屋は雪のため見事に潰れて材木が四散している。ここの水も冷池のと大同小異である。

岩小屋沢を過ぎて新越乗越着二時。「まだ少し早いがもうこれから針ノ木へは無理だな」というので泊ることにする。ここの雪渓は八月になるとなくなってしまうから八月過ぎには泊れない。谷一つへだてて針ノ木の雪渓が良く見える。「個処にはB班が居る筈だが、余り遅れたので先へ行ってしまったかな」などと話し合いながらたっぷりあある時間を利用して豪勢な食事を作り、偃松の枝を伐って寝床をこしらえる。八時就寝。[内藤]




針ノ木峠

7時、長谷川及び後藤さんが送って下る。午後よりグリセード練習。




濁小屋〜烏帽子

起床(5:00)〜朝食(6:00)〜出発(6:40)〜烏帽子入口(7:30-7:43)〜水場(12:20)〜キャンプ地(14:40)〜夕食(18:20)〜就寝(22:40)

晴。

五時起床。起きたのは他のパーティーより早かったが大人数のため食事に手間取り、出発は一番遅く六時半となってしまった。

一時間近く河原を歩きブナ立尾根の登り口に着く。これより先はいつ果てるともない急斜面で靴が滑り皆牛の歩みとなる。

十一時頃飯を食い、しばらく行くとやっと目標にして居た二二〇八・五米の三角点に達した。ここで最後に上ってきたものが立木に「水あり」と書いてあるのを見つけ、五分ほど下り水場を見つけた。下では稜線まで水がないとの事だったので大いに喜び、水筒を一杯にした。

いよいよ最後の登りにかゝった。まわりはようやく高山らしい景色となって来たが途中の展望は下から上まで木にさえぎられてほとんどきかなかった。

二時半稜線につき直ちに野営地にテントを張った。中村と一杉はA班の偵察を兼ねて烏帽子岳頂上まで出かけて行った。一時間程して帰って来た。A班は遂に見えず、あす一日沈殿と決定した。夕方からガスがかゝり寒くなって来た。[松田]




7月23日

A班
鹿島・伊藤・内藤

B班
青木・笠原・後藤

C班
中村・一杉・高橋・松田・近藤・神原・荒木
新越乗越〜針ノ木峠

新越発(6:00)〜鳴沢岳頂上(6:50)〜赤沢岳(8:10-8:30)〜大スバリ岳(11:10-11:30)〜マヤ窪(11:45-12:30)〜針ノ木岳(13:00)〜針ノ木峠(13:40) 笠原氏に会う。

晴。

七時出発。鳴沢岳八時、赤沢岳九時。スバリ岳の少し手[前]で、針ノ木から三人連れがB班の消息を伝えてくれる。それによると「一人が雪渓でスリップして負傷し、一人は風邪を引いて寝ている」との事。我々は三日遅れているだけに気が気ではない。大急で十時四十五分スバリを越え、針ノ木岳から直滑降で峠へ向う。

余り急いだため途中の一寸した雪渓でスリップし、五米位滑り落ちて手をすりむき冷汗を流した。荷が重いためピッケルも利かず岩にひっかかって辛じて止まったときにはほっとした。

峠小屋着一時、小屋には先輩の笠原氏が一人居られ、B班の消息を伝えて下さった。それによると「長谷川氏が黒部側の雪渓(例年はここには雪渓はないのだが今年は雪が多いため大きなのが残っていた)で五十米位滑り負傷して引き返した」との事である。自分が先刻やっているだけに他人事とは思えない。幸ザックから岩にぶつかったため大して怪我はしなかったらしいので安心した。八貫目(編注:約30キロ)の荷物を背負ってスリップしたときピッケルで止めるなどという芸当は余程の人でない限り難しいことであろう。

又B班の連中は待ちくたびれて平へ行っているというので、三日も遅れ、事故が起きているのに知らん顔も出来ない。縦走は止めにしB班と合流するため、翌日針ノ木岳を下降することに決める。[内藤]




針ノ木峠〜平

発(8:00)〜針ノ木沢出合(9:15)〜南沢出合(15:00)〜平(16:30)
笠原さんは小屋に残留

晴。

Hは帰り、Kさんは残り、更に重くなった荷を背負って、前へつんのめるような気持で下る。川もだんだん近ずいてくる。急降下爆撃というところだ。河原に出ても、たゞ水があるというだけで、道は不明瞭で、倒木をまたぐのに一苦労だ。右岸へ、左岸へ、滑りそうになめらかな石を足場に、又樹林帯に入り、倒木を越え、大きくなってくる流れの音に一るの望みを托して、前へ引っぱるように進む。

腰は痛み、河原の石の為に足の裏が痛い。額に、汗が流れる。眼にしみる。口に入る。ふく元気もなく、頭をたれて、後にひかれる荷をようやく前へひっぱる。

右岸を捲いて、河原へ降りる所がすごい。岩壁をへづらなければならぬ。下にいるGさんにとってもらおう。流れの出っぱっている所へ落ちそうだ。もうちょっと先へ出よう。しかし、片手にさげたザックは、余りにも重く、ついに手から離れる。

”どぶーん”やた。浮んでる!流れていく!回転しながら。流れは急だ。Gさんが追いかける。僕はようやく下に着くと、拾い上げてくれたGさんに感謝する。カメラも、フィルムも、全部だめだ。

しっとり重くなったザックを県命に背負う。

Gさんには先に行ってもらい、河原にあるでかい倒木の下を、流れの中をくゞる。ひざまずいたので、もゝまでびっしょりだ。ズボンをあげる気力もなく、たゞ、ふらふらと遅々と歩を進めた。

もゝの附け根までつかる渡渉をピッケルを頼りに、渡って森林帯をしばらく行くと、ごうごうという音と共に真っ青な水が勢よく流れる黒部川に出た。釣橋のこちらにテントがあった。そこまで、たどりつくと、砂の上にぐったりと座った。

一息ついて、あたりを見回すと、上流の方の岩壁はせまるように黒部川を圧し、負けないように、勢よく、三十米程の川巾一杯に川は流れる。水はあくまでも清く、冷い。大きく立ちふさがる石を越え、曲り角の岩角につきあたり、瀬を作り、渕を作って流れる。南アの野呂川と対称的だ。一年前を回想すると、沿岸は、ヒンヤリとする原始林に囲まれ、静かに強く流れる。時々、小さい滝や、名の[ママ]集まりにくると、その本性は発揮される。

南と北を代表する、この二つの川、これがそのまゝ、南北アルプスの特徴としてあらわされる。[青木]



烏帽子停滞

起床(4:45)〜朝食(7:30)〜烏帽子往復〜テント場(10:20)〜夕食(17:00)〜消灯(19:30) A班を待ち一日沈殿

烏帽子岳

夜は大変寒くなり、入口で寝て居た一杉と二人で暗いうちにとび起きてしまった。

朝食後一杉、荒木氏を残して他のものは烏帽子へ行った。道は尾根伝いのガレで突起を二、三越して頂上一つ手前のピークの社の前で冩真をとった。遠くから見ると烏帽子の形に見えるという烏帽子岳の頂は岩の一塊でその頂上にはようやく一人が立てるほどである。展望はガスの為悪く、わずかに赤牛、薬師が望まれた。

今日もA班は来ず、サポート分の食糧は小屋に托し、明日は三俣蓮華までの予定である。[松田]





7月24日

A班
鹿島・伊藤・内藤

B班
青木・笠原・後藤

C班
中村・一杉・高橋・松田・近藤・神原・荒木
針ノ木峠〜平

発(7:45)〜針ノ木沢出合(9:20)〜南沢出合(14:00)〜平(18:40) B班青木・後藤氏に会う [B班と合流]

山行日記なし。




平停滞

沈殿、笠原さんとA班を待つ、18時に到着 [A班と合流]、内藤熱を出す。

晴。

”来た”一日ぶらぶらと暮した日の夕方。ついに来た。Nも、Iも、Kも。みんな真黒だ。Kさんだけが白い。固い、心からの握手をした。血が交わうように固く。

その晩は炊火を囲んで、熱のあるNを寝かして、ともすれば、河音に消されそうな中で、声を張りあげて歌った。流れの音も辺りの暗に吸いこまれるようだ。火も燃えにくゝなってくる。[青木]




烏帽子〜三俣蓮華

起床(4:40)〜朝食(6:50)〜出発(7:10)〜三ッ岳(9:05-9:15)〜野口五郎岳(10:10)〜水晶岳分岐(13:55-14:10)〜鷲羽と近道の分岐(14:33-14:45)〜雪渓に入る(14:50)〜三俣蓮華テント地(17:25)〜夕食(19:55)〜消灯(21:00)

野口五郎から槍を望む

朝七時出発し三ツ岳へと向った。天気は良くなくガスが多い。しかし道を行くものは非常に多く、北アに来た事を思わせる。三ツ岳よりは、単調な、尾根伝いの道である。

野口五郎は、石のガラガラした山で中村一人が登ったが、皆は面倒くさくて下を捲いた。北アは道が岩であることと、雪渓の多いことをしみじみと感じさせられる。しかし、人が多いためかキャラメルの空箱や罐詰の空罐が到る所に落ちている。

野口五郎のガレた急傾斜を下り、真砂岳との鞍部の五郎池の良く見える雪渓の側で晝飯とした。今日も展望は全く悪く水晶岳も定かでない。

午後となるにつれて、ガスは増々濃くなり、風も少し出て来たので、時間的に早い雪渓を下り沢伝いに三俣蓮華の小屋へでる道をとることとし、鷲羽の頂上はあきらめることとした。雪渓を二つばかり滑り降り、薮コギに入った。ふみあとをたどり最後の登りにかかると空腹の為皆相当ばてたらしい。

十六時半三俣蓮華小屋附近に着き、テントを張ろうと思ったが指定地以外場所はよい所がなく、やむを得ず指定地に張ったら場所代をとられた。さすがは北アルプスだ。夜に入ると雨が降ってきたが明日はなんとかもつだろう。[松田]




7月25日

A・B班
鹿島・伊藤・内藤・青木・笠原・後藤



C班
中村・一杉・高橋・松田・近藤・神原・荒木
平停滞

停滞

山行日記なし。







三俣蓮華〜槍ケ岳肩

起床(4:30)〜朝食(6:10)〜出発(7:45)〜三俣蓮華岳の分岐(8:23-8:30)〜稜線に出る(9:30-9:40)〜双六池(9:50-10:20)〜樅沢岳(11:00-11:05)〜昼食(11:30-12:00)〜西鎌尾根に入る(13:30)〜肩の小屋脇テント地(15:40)〜消灯(21:55)

西鎌尾根方面から槍ヶ岳

曇後雨

起床は四時半だが少しもさついて出発は七時半過ぎてしまった。

三俣蓮華の登りは急だったがそれ程苦にならず、踏み跡をたどって行くと大きな雪渓を渡りだした。どうも様子が変で改めて目を上げてみると三俣蓮華の頂上はべったり雪がついていて、はるか下を捲いて居る道を歩いているのだった。今更面倒臭いのでそのまゝ双六の池へと向った。途中わずかに雲間より槍がチョット頭を出した。これが槍までの縦走中の唯一の眺めらしい眺めであった。

双六の池附近は、両側より落ちる尾根にはさまれたやゝ広い平らな所で、はるか山合より見える笠ケ岳の眺めと共に、のんびりした風情を味ふ事ができる所である。一休みの後、樅沢への登りとなる。頂上を越えたあたりから又々ガスが現れて、一雨降らねば収まりそうもない模様となって来た。風も少し出て来たので岩蔭で晝飯をとり、愈々西鎌尾根のガレ場へとかかった。

ガスはいよいよ濃く自分の足下がわずかに見えるほどになり、最早どの位で槍まで行くかの見当もつけられなくなって来た。ついに雨も降り出して足を早めたくなったが、如何せん人が多すぎてすぐ前がつっかえてしまうので思うようにはやく歩けない。雨は一層強くなり、皆雨具をとりだした。やっとガスの間より小槍がチョッと覗けた。この雨の中を登っている奴が居る。今一息。

肩より殺生小屋へ行く予定であったが雨が強いので一応肩にテントを張ることとした。テントを張るには張ったが、全員ずぶ濡れの上に、薪はない。まず着替えをし、寝具をれて[ママ]くるまり残りの水でコゝアを沸し、乾パンで晩飯とした。食後も寒く歌など歌っていたが夜になると寒さは増々ひどく、三千米の雨にたたかれた夜は特にこたえた。眠られぬまゝに外へ首をだして見ると雨はあがり空は、星がきれいに光って、明日の晴天を思わせた。[松田]




7月26日

A・B班
鹿島・伊藤・内藤・青木・笠原・後藤

C班別動隊
松田・荒木

C班
中村・一杉・高橋・近藤・神原
平〜五色が原

発(9:30)〜釣り橋(10:30)〜刈安峠(12:35-14:20)〜五色が原(17:00)〜五色小屋(17:40)

晴一時小雨。

Nの病の為に更に一日沈殿して、元気いっぱいで出発する。

釣橋は、直径5cmもない薪の様な木が、針金のように細い線にさしわたしてあるだけであった。さびたワイヤーが二本、上に釣られ、足の方は、両方に五、六本の針金、真中にはない。一本の針金が、ワイヤーとの間に手がかりとしてついているが、所々ない。流れは、山の中にしては、真緑になっている位深く、しかも急流であるので、橋を渡っていると、どんどん下へ流されるみたいである。しかも前に通ったある大学に大分こわされていたので、これを渡るのに一時間位かかった。

二十三日に作った背中のたこの為に、荷を大分少くしてしまい、重いテント等を上に持ってもらったので調子[抜けあり。ママ]

十二時半頃、刈曳峠へ着いた。立山が樹間に見える。烏帽子のとんがりも。しかし、昨日は、飯を食いすぎて足りなくなりそうなので、今朝の飯は少なく、木の根元に荷を下した。そして文句を云いながら、ミルクをわかした。ガックリきたので、晝抜きのつもりだったが飯盒一本の飯を六人で食ったが、登り始めると、さっきより腹が減って休む方が多くなって来た。

ある岩陰へ来て休むと、ついにストを起してしまった。向い側には、赤い肌を見せて、いかにも崩れそうな岩の山、針ノ木岳がみえる。いくら、ストを起しても行くよりしょうがないということになり、一時間位して動き始めた。さっきよりも急いで、一直線だ。グングンと高度は高まる。木が低いので暑い。

ちょっと展望の良い所へ来ると、Kさん等の発言”いゝ所だ”と云うので、すぐ座り込む。槍も見えてきた。大分平らになってきた。足先をみつめて歩いていると、前からすーっと涼しい風が吹いてくる。ふと前を見てみると、広大な、ものすごい広い草原だ。先の方には鷲羽岳が見え、雪渓がある。はるか向うに小屋が見えた。芝生のような小さい草間に咲く小さな、可憐な花が疲れ切った我々の身心を慰めてくれる。

勇気百倍して、細い道をたどり、ちょろちょろ流れる小川を越えて、我々は適当なキャンプ地に着いた。雨が降ってきたので、テントを張って入った。すぐにやんだので、辺りの偃松の枯れた枝をいたゞいた。火をつけ、鍋に飯の半分を入れて、味噌をたくさん入れて、まずいおぢやにしようと思ったんだが、みんなよく食ったこと。暖いので、とてもうまい。

黒部川の平にいた二日は、あれでうるさくさえなければ避暑にはなかなかいゝんだが、こゝは又何と寒いことよ。とてもたまらない。夜も、よく眠れない位寒かった。[青木]



槍の肩〜槍沢

テント地〜中岳〜テント地〜槍沢(16:00)

槍沢方面から槍ケ岳

本隊と別れてからの行動は予定によれば、A班と合同し槍から穂高迄縦走し前穂より神河内を下るのであったが、A班とは合はないしC班の本隊と分れたのが十一時では本隊との合流の関係上時間が遅くなっているので穂高行はあきらめる事にしたが、槍沢を下るには天気はいゝし時間も余裕があるので、ザックを肩の小屋へ置いて空身で縦走路を中岳の方へと遊びに行って見た。

中岳の頂上に来て見ると南岳の方をはるかに人が行くその行手には穂高が快晴の中にそびえ立っている。今更くやんでも追つかない。

再び肩へ返りおそい晝飯を食べて、槍沢を下る。途中多くの人とすれちがう。槍の隆盛を思わせる。此冬焼けて今夏新築した槍沢小屋の少し下流の河原にテントを張る。十六時。今夜も寒い。[松田]




槍の肩〜常念乗越

起床(4:30)〜槍ヶ岳登攀(6:45-7:10)〜テント地出発(10:45) [別動隊と分れる]〜殺生小屋(11:00-11:20)〜東鎌尾根終わり(12:30)〜西岳昼食(13:50-14:30)〜燕岳と常念の分岐(16:20)〜大天井(17:15-17:35)〜常念小屋(19:40)〜夕食(20:10)〜就寝(20:00)

常念岳

朝四時、眼を覚してテントから覗いて驚いた。朝暗いうちから、肩から槍の頂上へかけては真(マサ)に蟻の行列である。南アと較べなんと人の多いことよ!! 日が昇って来る。今日は快晴だ。雲海の上に南ア、八ヶ岳がくっきりとはるかかなたに浮んで居る。目を転ずれば、尾根伝いに南岳、北穂が黒い岩肌を見せて居る。再び目を帰せば谷一つ隔てて笠ケ岳が見える。

槍の岩のゴロゴロした急斜面を人が隙間なく登っているのは、事故を眼前にブラサげているようなものであると思って居る間に一人が落石を起し二、三人負傷した様子であるが幸に墜落者はなかった。こんなに大勢の人が登っていると登りたくない様な気もしたがここまで来たのだからという俗気が出て頂上まで登って見たがどうと云う事もない。

折りからの晴天に昨日の雨で濡れたシャツなどを乾かして、雪と乾パンの朝飯をして居るうちに十一時となり、荒木、松田両氏に別れ常念に向った。

殺生小屋を通り東鎌尾根を下り始めると続々と人が来る。さすがその名の示す如く銀座である。ボロッーと崩れやすい急な下りを落石を気にしつつ下るのは辛い。天上沢のつめに来てようやく東鎌尾根が終り、ほっと一息ついて再びアルバイトを重ね十三時五十分西岳小屋へ出た。

こゝで晝食とした。目指す常念は目の前であるが、尾根伝いのまわり道をする。いわゆる喜作新道である。全く無味乾燥な道でわずかに北に見える山が目を楽しませる。ここまで来ると出合う人もなく静かなのが有難い。

大天井の頂上附近で燕方面へ行く道と別れ、しばらく登ると東大天井の頂上に着いた。夕暮れ近い穂高から槍への眺めが素晴らしい。思わず休み過ぎれば、雲が現はれ易々にしてたち上る。東天井から常念に向う道は通る人も少ないのか道も少々荒れているように感じられる。右手に夕暗せまった穂高を見つゝ歩くと何となく物寂しさを感じさせる。

十九時半予定を変え小屋に入る。[一杉]





7月27日

A・B班
鹿島・伊藤・内藤・青木・笠原・後藤

C班別動隊
松田・荒木

C班
中村・一杉・高橋・近藤・神原
五色が原〜一の越

発(9:10)〜ザラ峠(9:37)〜発(9:50)〜シシ岳(11:15)〜浄土山頂(14:05)〜一の越(14:30)

青木・内藤はザラ峠から、立山温泉へ下る。

晴後雨。

朝食は、昨日の晩に炊いた飯盒二本だ。一本を三人だから腹がふくれる筈がない。朝から意気消沈だ。

昨日の晩、Nはせきがものすごい勢であったので帰すことにした。僕も少し寒けと頭痛がするので(実は行く前に医者にみてもらったら、リンパ腺だとも云われていた。)一緒に降ることにした。朝の空気は涼しく、気持がよかった。山の広い高原、何もない大きな高原に、日は一杯に照りつけた。

いざ出発となると、今迄食いぶちがふえたとかちって喜んでいた連中も、荷物がふえたとか、腹がへったなどといっていた。そのうちに十時になってしまった。

いかにも陰気くさい、変な感じの悪い男がやって来た。ナタを二丁も腰につけていた。そして、こゝでキャンプをしてはいけない、ちゃんと指定地がある。劔にもあるんだ。なま木を切っちゃいけないんだ等とぶつぶついっていたが、向うへ行ってしまった。営林署の奴だ。いやな野郎さ。なんだい、やっぱり北は北だけのことはあるさ。幻滅だよ。

我々は出発した。十分も行くと、小屋の前へ出た。キャンプサイト指定地だとはいえ、貧弱な所だ。水も薪もない。小屋にもうけさせるようなものだ。北は北だ。小屋の前から急な降りになる。火口の内面の赤いガラガラな石ばかりで、黒部川に草原がゆるく広がり、富山側は急にぐっと赤く落ちている。どんどん降って、その鞍部がザラ峠だ。こゝでお別れだ。後立山の連峯にもさよならをつげる。

Gさんが登りにかゝる。Iが行く。Kも、少し遅れてKさんも。

”さようなら、元気で”

こうして我々は無事立山温泉を通ってその日のうちに富山へ入り、待合室に一泊して、日本海をみながら、なつかしの東京へと向った。[青木]



槍沢〜涸沢

槍沢(10:30)〜横尾〜涸沢(15:30)

晴後曇

朝はゆっくりと寝坊して十時半に下り出す。横尾の分岐へ来て晝飯をたべながら眺めると、びょう風岩の彼方へ又穂高がその姿を現わした。予定はあと一日あるので涸沢迄行って見ようという事になり予定を又変更して出かける。しかし涸沢に十五時半頃着いて見ると又そぞろ曇り出した。

涸沢はテントが非常に多く、人間も色とりどり多い。[松田]




常念乗越〜明神

起床(5:00)〜朝食(6:30)〜出発(7:10)〜常念岳山頂(8:25-9:20)〜蝶ヶ岳鞍部(10:14-12:00)〜蝶ヶ岳山頂(13:25-13:45)〜分岐(14:00)〜横尾山荘(16:12-16:25)〜徳沢園(17:25-17:35)〜テント地(徳本峠の分岐)(18:20)〜夕食(20:50)〜消灯(22:50)

蝶ケ岳方面から穂高連峰

晴後曇

同宿の団体客の叫び声に目が覚める。七時小屋を出る。ワン・ピッチで常念の頂上に着く。山行第一の天気に恵まれ三百六十度の展望は格別である。諏訪湖も見える。山の神の御利益あらんが為、すべり落ちた社を再び頂上に奉って常念を去った。劔、立山は視界から去っても穂高はまだ隣りにある。

林の中の平坦な道を蝶ケ岳へ進む。蝶ケ岳を最後に横尾へ下る新道を下る。十六時十五分横尾山荘に着き、再に[ママ]梓川に添って下り、明神館の少し手前、徳本峠からの出会う地点の河原にテントを張った。

夕暮れとともに雨に襲われ、再に[ママ]名物の雷にも見舞われ一晩中雨もりと戦った。[一杉]





7月28日

A・B班
鹿島・伊藤・笠原・後藤

C班別動隊
松田・荒木

C班
中村・一杉・高橋・近藤・神原
一の越〜ブナ小屋

一の越山荘発(14:30)〜追分小屋(16:15)〜引?小屋(17:00)〜滝見小屋〜ブナ小屋(20:15)

雨。

山行日記なし。




涸沢〜上高地

涸沢(14:00)〜横尾(15:15)〜上高地(18:30)[C班に合流]

曇時々雨。

朝眼をさましてみると雨である。食糧は最早なく本隊と合流の事もあり無理して登るわけにも行かず十四時雨の小降りを狙って下り出した。

十五時十五分横尾に着くと雨はやみ又穂高が見える。しゃくな山である。

食糧は最早全然なく、本隊に会わないと今晩飲まず食わずで明日急いで帰京しなければならない。明神池を過ぎるあたりからは最後に残ったわずかの分の晝飯だけの腹はいよいよへって来る。

十八時半やっと空腹をこらえて小梨平へ着く。本隊のテントはすぐ見つかった。夕飯の支度中である。バンザイバンザイ!! [松田]



明神〜上高地

起床(7:00)〜朝食(10:30)〜昼食(13:50)〜出発(14:30)〜小梨平に向かう〜カッパ橋(15:20)

曇時々雨

曇りで目の前の穂高も見えない。テントの中で寝不足をとり返す。晝食後(十四時)テントを神河内に移す。夕飯の仕度をして居ると、ようよう荒木氏一行が到着した。[一杉]





7月29日

A・B班
鹿島・伊藤・笠原・後藤



C班
中村・一杉・高橋・近藤・神原
下山

発(17:00)〜藤橋(18:00)〜栗巣野(18:45)

雨。

山行日記なし。







解散

上高地にて解散。以後二日上高地にてキャンプをする。帰京30日。

解散。中村、高橋両名は早朝帰京し、他止った。

[補足]

槍より常念へは、予定は西岳小屋よりニノ俣、一ノ俣を渡って直接常念小屋に出る地図(五万分の一....地理調査所)記載の道を通ることになって居たが、現在は相当古く廃道となって居り、又時間も喜作新道を通るよりもかゝるとの事である。

又常念より神河内に出る道は、我々の通った蝶ケ岳〜横尾谷出合の道が今年作られ、一番短時間である。大瀧山から徳沢を下る道は、徳沢の下りが地図の見かけよりは、相当時間がかかるとの事である。

[結び]

以上で本合宿の一応の報告を終る。本文は合宿の報告を目的としたものである。従って班としての行動を記したものであるから、班としての行動に直接関係しない事及個人に関した事宿泊地附近の叙景等はすべて省略した。

又合宿は非常に天気に恵まれぬものであったから遺憾ながら、非常に杜撰な叙景となった事をいかんに思う。

又合宿を通じ、小屋の使用は、濁小屋(無人仮小屋)及常念小屋(有人)の二つで他はテントを使用した。






page 1. 合宿概要・行動記録 1/2
page 2. 行動記録 2/2

1952年度活動記録も併せてご覧下さい。


おことわり

この「北アルプス全山縦走」のページは、岩燕 IV 号掲載の以下の三本の報告をまとめて再構成しています。

  • 報告「北アルプス縦走記」内藤担(A班の報告)
  • 報告「北ア・烏帽子以南」一杉正治・松田裕明(C班の報告)
  • 雑録「北アの山日記より」青木義明(B班の行動をベースにしたもの)

C班の結びにも明記されている通り、報告と雑録の部分では執筆者の意図や表現にも差異があり、また当時の編集方針を無視することにも若干の懸念と罪悪感を抱いておりますが、サイト上で55年分に及ぶ岩燕すべての合宿報告をオンライン化するなかで、同一の合宿の各班の記事がそれぞれ独立して掲載されるよりは、一つの合宿の異った側面からの報告として再構成することにも意義があろうという判断のもと、敢えて一本化して読者の便宜を図ることにしました。 御了承をお願いします。なお、写真は後の時代のものです。


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text by t.naito, h.matsuda, m.ichisugi & y.aoki, photos by g.kosaka & n.takano.

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