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tome IV - 合宿報告3
冬の八ヶ岳西面昭和23年度冬季合宿
page 2/2:行動記録2/2・反省 |
気温 中-8度 外-18度(6:00) 中+15度 外-12度(23:00) 昨日予想した様に、素晴して[ママ]天気である。朝、中村の「六時だぞ」といの声に[ママ]、驚いて飛び起きる。寝ぼうしたので、出発は8時40分になってしまった。風も殆ど無い様だ。快適な登攀日和、足取りもかるく、中赤のコルに着いたのは9時半、昨日と違って、軽い歌など口ずさんで行ったのだが、コルについた時に、死体が少しも変らずにあるのを見て、何故か不思議な感にうたれた。赤岳の右側をトラバースして、縦走路を南峰に登った。悪い所など一つもなく、写真をとりながら、可成ゆっくり行ったつもりだったのに、コルから一時間程で、頂上に着いた。永い間夢見た、冬の赤岳頂上である。私達はかたい握手をし合った。北アルプスを初めとして、本州中部の山が、手に取る様に見える。石室で食事をした。まだ時間があるので、直接行者小屋に降りるコースを見つけやうと、南沢の原流に降りて見たが、滝の為に前途をはばまれた。仕方がないので石室から赤岳沢のつめを、トラバスしながら偵察して見た。何れも少し降った所に、滝があって、それ以上の下降は不可能だった。昨日私達が試みた、西壁も、ここから見れば全体がはっきりとわかる。再び赤岳を越えて、帰路についた。下りは早い。赤岳から、わずか30分で、天幕についてしまった。中村は日暮までスキーをして居た。雪は少いが非常に雪質が良い。例年であったら、相当に楽しめたであらう。ラジュースの調子がすこぶる悪く、三回も分解したのにちっともなほらない。小田と二人で、11時頃まで過そう[ママ]と試みたが、駄目だった。少し口惜しまぎれに、どうとでもなれと、シュラーフにもぐり込んでしまった。 大同心(撮影:1975年) 気温 中-8度 外-12度(9:00) 中+15度 外-8度(21:30) 9時迄、ながながと寝る。朝になって、又ラジュースを1時間がゝりでやっと直した。11時頃、私達のベースキャンプに、ぬっと顔を出した、登山者の一団があった。むっつりとしてゐる。変な人達だなと思って、よく見ると、見覚えがあった。早大のパーティーだった。秋田氏や、関口氏の顔も見られた。私達の発見した、早大生の死体を下しに来たさうだ。中赤のコルに案内する。凍った死体は、ピッケルにふれると、コチンと音がする。とても人間とは思へない。何本かのザイルを使って、行者小屋まで下したのは14時頃。天幕のすぐ下に、死体をおいて、早大の人達は帰ってしまった。どうも死体がとなりにあると思ふと一晩中良い気持はしなかった。 気温 中-5度 外-9度(5:00) 午前中はすっかり、小屋の中をかたずけた。きれいにそうじをして、帰るばかりに、ザックをつめておいて、11時過ぎに、行者小屋を出た。早大の人達は、朝早くから来て、死体を下しに行った。中の行者小屋で焼くさうである。行者小屋沢に沿って、しばらく登り、森林限界の所から、左手のリッヂに出て登った。ラッセルは、ひざからせいぜい、もも位までで、時々、倒木の間等に落ちこむと、腰まで埋まる。このリッヂは夏の登攀に用ひられて居るが、冬期も楽に上下出来る。稜線上に、なつかしいお地蔵様の姿を見たのは一時頃である。出発が遅かったので少し急いだ為、一時間とちょっとで登ってしまった。ずっと針金がついてゐるが、大して役にもたゝない。傾斜は非常にある。 ここから一時間程で、横岳の最北峯に達した。悪い所は殆どなく、もって行ったザイルは、全然役に立たなかった。帰路、大童心[ママ]を過ぎたばかりの岩峯を左にまくところが、少し緊張を感じさせられた。何しろ、食料は、チーズ一個しかないので、腹がへってたまらない。その上、時間も足りなかったので、硫黄岳までは行かなかった。稜線から30分程で、行者小屋についてしまった。八ヶ岳のスケールは小さい。6時間も歩けば、一日の行動は十分である。 今日でいよいよ合宿も終りだ。すっかり整理されて、元通り四本の柱と、わずかの羽目板と、屋根を持った、この小屋を見た時にはわれながら、よくもこの様な所に、五日六日もがんばってゐたものだと思った。食料は大部分なくなったはずなのに、荷物はさして小さくならない。16時40分なつかしい行者小屋を後にした。中の行者小屋で、死体を焼く薪をつんで居たのが、淋しく私の心を打った。私達は心から、この気の毒な登山家の冥福を祈った。 製材所で、おしるこを思ふ存分に食べた。ささやかながら、合宿コンパのつもり。大きな成果をおさめて、私達の顔は、皆晴やかだった。苦しかったが、有意義の6日間であったから。 久しぶりに、ふとんの上に、足をのばす気持は、何ともいへない。しかも、足にはこたつさへ入っている。 製材所(11:30)〜農場(12:40)〜柳沢(14:20-16:40)〜茅野(17:20-17:54)〜新宿(23:30) 気がゆるんだせいか、起きたのは、10時すぎである。皮肉なことに、私達が山を降りるといふのに、良い天気だ。 11時過ぎに、小屋を出た。バスが柳沢を、4時20分発だといふので、可成急いだ。農場についたのは12時40分、ここからの道は、午前中照ってゐた、太陽のおかげで、丁度、昨日食べたおしるこの中を行く様だった。荷物が重いために、バランスがとれずに、二回ばかりころんで体中どろだらけにした。八ヶ岳の帰りは午前中、霜柱のとけぬ中に下るべきである。 柳沢についたら、バスの時間が変ってゐて、2時間もまたされてしまった。 八ヶ岳は、すでに雲におほわれ、小雪さへ舞ひ始めた。初めも、終りも、そして真中も、なんとまあ天候に、なやまされた合宿であったらう。 第一に、反省せられる点は、秋に偵察に入っておかなかったといふことである。去年の夏、私が偵察に行った時には、立派な小屋であった行者小屋が、行って見れば、人夫が下る時にこはして行ってしまったので、殆ど使用は不可能だった。若しも私達が天幕を持って行かなければ、この合宿はつぶれてしまったかもしれなかった。必ず一カ月位前に、自分達で偵察に行かねば駄目だ。 次に天幕生活であるが、ローソクを持って行かなかったのは、私達の大きな失策だった。寝るときには、ラジュースで +15度位まで上るのに、明け方になれば-8度位に下ってしまふ。ローソクを一本つけておけば防げたことなのである。照明具は大体電池であったが、-10度以下になると、凍ってつきにくくなるので不便である。保温からも、明るさからも、カーバイトランプが良いのではあるまいか。 食料は、20たば持って行った、干うどんが、予想以上に、役に立った。朝コッヘルに雪をとかして、その中に野菜と一緒に入れゝば、時間も経済だし、味もよかった。特に考へさせられたのは、何でも凍ることである。これは考へれば当りまへの様なことであるが、ジャガイモから、トマトケチャップ、県は[ママ]注射液に至るまで、ちょっとでも水気のあるものは、必ず凍ってしまふのだから、保温箱といふ様なものを、特に考へる必要がある。 装備についていへば、靴は気温がそれ程低くなかったので、スキー靴でも、ナーゲルでも、大して違ひは感ぜられなかったが、-20度乃至-30度にも下る、冬山をねらうのだったら、どうしても、スキー靴にすべきであらう。オーバーシューズは、だれももって行かなかったので、毎日靴をかはかすのに、非常な苦労をした。ラジュースは、一つの天幕に二つは必用だ。8日の晩に、ラジュースの調子が悪かった為に、9日の行動が早く出来なかったのは、全く考へさせれる。それに一つでは、朝全部、ラジュースで仕度するので、3時間もかかる。片方で味噌汁を作り、片方でうどんをにるといふふうにすれば、時間は半分になるに違いない。気温の高かったせいか、衣類はひかく的に少なかったが、それ程寒さを感じなかった。手袋は、毛絲の手袋の上に、必ず、風を絶対に通さない手袋もはめるべきである。顔をおほふものは、必ず必要。7日の日に風雪中を、赤中のコルからの下りで、睫や、鼻や、口のまはりが凍りついて、目を閉ぢると開かなくなり、盲同然の有様であった。あれが、長時間続けば、顔全体が凍傷になることは必至である。 以上述べた様に、色々と、失敗した面もあったが、広くこの合宿全体を見たら、前に云った様に、やっぱり大きな成功だった。私達は、冬期八ヶ岳といふものを十分に研究することが出来たし、冬山の居住性といふことについても、十分に研究したのである。私は、以前に、「冬山は居住性なり」といはれたことがあるが、その時はべつに何も感じなかった。が、自分で実際に冬山に入って見ると、始めてその言葉の重大性に気がついたのである。居住性の完全さがなくては、よき登攀は望めないのである。
page 1. 合宿概要・行動記録 1/2
1月8日 快晴
天幕(8:40)〜赤中のコル(9:25-9:40)〜赤岳の肩(10:35)〜南峯(10:40-10:55)〜コル(12:00)〜横岳の下(12:00)〜赤横のコル(12:25)〜石室(12:50)〜赤岳(14:25)〜赤水のコル[ママ](14:33)〜天幕(14:45)
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1月9日 曇時々雪
天幕(12:45)〜赤中のコル(13:18-13:25)〜天幕(14:05)
1月10日 晴時々曇
天幕(11:25)〜稜線(12:53-13:05)〜二十三夜峯(13:20)〜横岳(14:00-14:15)〜二十三夜峯(14:45)〜天幕(15:20-16:00)〜中の行者小屋(16:40-17:10)〜製材所(17:30)
1月11日 晴後曇
以上をもって、私達の八ヶ岳合宿の報告は終るのであるが、最後に、この合宿で気がついたことを、色々書きとめておかうと思ふ。
過去三年間の山行を省り見て、この合宿は、最もすぐれたものであった。登山がスポーツである以上、一年前より現在、現在より、一年後といふふうに、たとへ少しずつでも進歩すべきである。少くとも、進歩すべく努力すべきである。私達はこの山行を最後として、麻布から離れなければならない。代が変るのである。私達の後輩諸君が、私達の経験をふみ台として、より麻布学園山岳部の発展をする為に、この八ヶ岳合宿が、少しでも役立ってくれゝば私達のよろこびはこの上もない。又そうでなければこの成功は無意味に終ってしまふのである。24.1.20 (成瀬記)
page 2. 行動記録2/2・反省
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text by s.naruse, photo by n.takano (1975).
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