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tome VIII - AAC50年の歩み 3
座談会「AACの50年をふりかえる」(2)平成8年9月7日
page 2/3 〜それぞれの頃の山岳部〜 ー本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。このたびは、『岩燕』第八号を発行するにあたり、50年間の山岳部のあゆみを座談会の形式で掲載しようという次第で皆様にお集まりいただきました。皆さんの上の代のかたがたには既に別の席で話し合っていただきました。 この座談会で皆さんに話していただきたいことは、大きく分けてふたつあります。第一の話題は、皆さんの頃の山岳部について。たとえばどのような山に登ったのか、どのように計画をたてていたのか、どのような装備、食料を持って登っていたのか。あるいはもっと抽象的に、どんな山岳部だったのか、などを話していただきたいと思います。 第二に現役部員へのメッセージなども含めて、山岳部のあるべき姿などを話していただきたいと思います。現在の山岳部の現役部員は若干三名。実際の活動は合宿以外は行っておらず、年間山行日数は10日間程度です。このような寂しい状況になってしまったことを嘆いても仕方がありませんが、現実問題として、このことをふまえた上で、我々がOBとしてこの危機的状況に際してどのように現役部員に協力できるのかも、一緒に考えていただきたいと思います。 ーみなさんどのような山に登っていたんですか。 森 僕が山岳部に入ったのは、確か中三の時で、当時はけっこう適当にやってたね。高一の頃からまじめにやりはじめて、だいたいそのころ行ってた山っていうと、春に沢登り、夏は北アルプスで10日間くらい、秋に奥秩父、11月に富士山で雪上訓練、僕らの代で最後だったけどね、冬に八ヶ岳、春に北アルプスというのが、大まかなパターンでしたね。春の北アルプス登頂、僕の時は餓鬼岳に行ったんだけど、それを最終的な目標において一年間のスケジュールをたてていたね。餓鬼岳なんかも偵察して荷上げなんかもしてかなり気合い入ってたね。
鈴木 僕らの時には、山域自体は森さんの頃とあまり変わらなかった。いちばん最後の春には、霞沢岳に行ったな。失敗したけど。 高坂 でも、あれはすごいですね。ぼくも冬に霞沢の南尾根へ行きましたよ。長いんですよね。よくそんなプランがでてきましたね。 鈴木 あれは山岳雑誌の影響だね。そういう記録がでてたんだよ。 森 俺がOBでついてったんだけどね。最後あきらめるときになったら鈴木が泣いてな。かなり思い入れ強かったからね。ああいう精神はあの頃あったんだよね。僕のやった餓鬼岳も、はじめ新ルート行こうってね。結局道ついたところになったんだけど、ちゃんと偵察して荷上げして、ペナントつけてね。 鈴木 パイオニアワークみたいなものへの憧れがありましたよね。
藤森 僕らがOBになった頃から岩城たちが南アルプス深南部を始めたんですよね。高坂ともよく行ったよな。黒法師とか麻布山とか。人がほとんどいなくてな。 鈴木 あれも新しいパイオニアワークだった。やっぱり山岳雑誌の影響だよね。 高坂 まず『山渓』の小さな記事をみて二万五千図を買いに行って、「ここが麻布山かあ」なんてね。でも、深南部に行きはじめたのは実は苦肉の策でね。八ヶ岳くらいの積雪期の合宿はその頃もやってたんだけど、そこからもう一歩進んで北ア、南アとなるとそこまでやる力はあの頃なかった。それ以外だと奥秩父、丹沢くらいしか思いつかなくて、じゃあどうしようかって苦肉の策だったんだよね。 小沢 僕らの頃はまたポピュラーな路線になって、冬は北八ヶ岳や奥秩父とかね、あとは結局中学生が増えてきちゃって、合宿は分けるか別々にやるかしかなくなってしまって。夏なんかはだいたい高校生は一週間くらいで、下級生は二、三泊で下山するってパターンが多かったですね。 高坂 ここら辺でOBや先生の役割に変化がでてきてるんだよね。本隊から下級生を上げ下げしたりね。ちょうど僕がリーダーになった頃に増子先生になったんだよな。平野先生は計画や行動自体にはほとんど口を出さなかったけどおっかなかったな。浜田なんか山でのミーティング中に態度が悪いってんで「立ってろ」ていわれて天幕の中で立ってたもんな。 森 先生はほとんど関わってなかったな。そもそも部長先生がいなくてね。宇野先生が部長代行してた。 鈴木 やっぱり大きかったのは那須の遭難だよね。あの遭難でもう一度0B会を立て直そうって話になって、上の先輩方が苦労して代表指導委員制度を復活させて。平野先生も山についてきてくれた。 梅村 今は逆に技術的なリーダーみたいなのも先生になってしまってます。山にいちばん詳しいのが増子先生だから。 藤森 OBに相談するよりも先生にってことかな。 梅村 はい、OBってのが、結局僕になってしまいますから。僕なんか山の知識なんて乏しいし。若手OBで専門的に山をやっている人がいないんですよ。高坂さん以来、大学で山をやっていた人もいないんじゃないかな。 金沢 僕らの頃の合宿も先生に負うところが大きかったな。昔の山岳部は中学と高校が分かれてたみたいだけど、僕らの頃は分けるほどの人数もいなかったから。ほとんどいつも先生か0Bに下級生の付き添い役をやってもらっていましたね。 南谷 僕らの頃のバイオニアワークっていうと岡本さんがリーダーの時の北海道ですね。あれはなかなか岡本さんが頑張って思いついてくれたんですよね。丸二日間かけて電車とフェリーで富良野まで行ってね。 梅村 僕らの頃は恥ずかしながらそういったパイオニア的なことはできませんでしたね。中二でリーダーだったもんで、今までの計画書をみて少々レベルダウンさせたりしてコースを選ぶってのが精一杯でした。冬なんかもどうしても北八ヶ岳、奥秩父、丹沢あたりになってしまって。近頃ですと例のザイラーバレーにスキーに行ったりしてますけど。 藤森 今、山スキーとかはやってないの。僕らは八方とか巻機とか行ったけど。
鈴木 巻機は申し訳なかった。(笑) 高坂 バス降りたら冬だってのに土砂降りの雨で、軒下でどうしようかって。そしたら鈴木さんが東大のワンゲルの小屋に泊まろう。鍵のある所知ってるからって交渉してきて。なんでそんなこと知ってんだろう。ずうずうしいよな。(笑) 藤森 田圃の中でスキーはいて練習したりね。あれも情けなかった。 ー装備や食料はどうでしたか。 森 僕らの頃はみんなキスリングだったよね。72センチのやつ。あれをみんな一年生の頃から背負わされてね。上の方の人は64センチだったけどね。 高坂 ちなみにどこの? 森 細野ですね。 高坂 そんなのなかったな、俺の頃は。 鈴木 細野がいちばんパッキングしやすかった。他にもニツピンとか、安いのがあったけどね。 森 そう。当時はパッキングをいかにうまくするかで生き残れるか差がでたんですよ。だからみんなザックの取り合いには真剣になった。 南谷 実際どのくらいの重さになったんですか。 森 夏は自分の体重より重かった。 南谷 ほんとですか? 森 60キロは背負った途端倒れたのは記憶にある。だいたい体重の七割までは背負えるっていわれてました。ひとつひとつの装備が今より全然重かったんだよな。シュラフは化繊でできた重たいやつで、冬なんか湿っちゃうとめちゃくちゃ重くってね。上手くすると先輩のふわふわのを借りられるんだけど、なんか痛いのが入ってて、入ると毛だらけになるんだよね、あれ。 藤森 テントが全然違いましたよね。 鈴木 テントは家型でビニロンでできてた。冬はウィンパー型で10キロくらいになりましたね。 森 もっとあったろう。 鈴木 フレームも塩ビじゃなくて、籐なんだよね。(笑) 南谷 僕は三角テント使ったことありませんけどいつ頃まで使ってたんでしょうね。 金沢 僕が中学くらいの時に、あれが大嫌いになったんで、それでダンロップとかエスパースになったんですよ。 鈴木 キスリングがなくなったのはいつ頃かな。 小沢 僕らが高二くらいの頃からぼちぼちアタックザックがでてきたから、同じ頃かな。逆にいうと、六テン(三角テント)はやっぱりキスリングじゃないと入らないから、あれがなくなったおかげでみんなアタックザックが使えるようになったんじゃないかな。 南谷 食料なんかどうでした? 森 僕らの頃、面白いことやりましたよ。冬山でてんぷら。行者でね。温度が上がんないもんだから、OBなんか自分の分だけ交互に揚げて食ってたね。 藤森 それは失敗談じゃないですか。 森 そう、二度とやらなかった。(笑) 鈴木 基本的には全て生で持って行きましたよね。肉くらいは塩漬けとかペミカンにしたけど。ちょうど乾燥野菜が出始めた頃で、でもまずくて、長ねぎは使ったけど。あと、今あるかな、粉末ジュース。 森 そうそう。ワタナベのジュースの素。チクロが中に入ってるやつ。あれがうまくてな。チクロなんて今、知らないだろ。 鈴木 そう。オレンジジュースは飲むと舌が真っ黄色になって。夏はあれがないとね。 南谷 全く分かりませんね。僕らはポカリスウェットとかスポーツドリンクは使いましたけどね。 藤森 僕らの頃は夏なんか水はなるべく飲むなって言ってたけど、いまはどうなの? 金沢 僕らの頃は二回休むごとに100ccとか決めて給水制限してたけど。 南谷 そう。バールの線までとかね。でも定期的に補給してたし、飲まない方がいいとまでは言ってませんでしたね。 鈴木 僕らの時なんか、水は食事の時だけだったよね。バールに半分ぐらいかな。ナンセンスだよね。精神主義みたいな。 藤森 水飲むとバテるから、飲んじゃいけない。雪も絶対食べちゃいけない。でも実際、水飲むと汗がだらだらでてきてそのせいでバテるような気はしたけどね。 金沢 僕が入ったばかりの頃はすごい厳しい給水制限があって。その反動で僕らの代は水に対して確執みたいなのがあったんですよ。だから南谷の頃には比較的水には甘かった。 鈴木 スポーツの世界でも、水の適切な摂取は今じゃ常識だよね。僕が高一の時一人熱中症みたいになって倒れちゃったのがいて、小屋に世話になったりしたんだけど、適切な水の摂取をしてればならなかった。 行動食なんてどうしてる?僕らの頃は一時朝飯の残りご飯をバールにいっぱいに詰めて「のりたま」をかけて持ってくのがはやったけどね。腹持ちいいし、元気でるし、調子良かったけど。 高坂 僕もそれ一度やったなあ。「今日の昼飯は弁当」とか言って。
藤森 そう「弁当」。でも昼飯でいちばんヒットだったのは「くずかす」だよね。中村屋かなんかで、カステラのくずをもらってきて、おにぎりみたいにして。値段も安いんだよね。 鈴木 それと「ムキミ」。今でもムキミ便うの?(ムキミ = 魚肉ソーセージ) 高坂 使ってますよ。でも、いつから誰が「ムキミ」って言い出したんですかね。あれはうちの山岳部でしか使わない言葉ですよね。なんだってあんな言葉使い始めたんですかね。(笑) 鈴木 あれ山だと食えるけど下界に持って帰ってくるとまずいんだよね。 高坂 いつだったかのレポートに「ムキミシチュー」てのがあったけど、あれもまずそうだよなあ。ペミカンが腐っちゃったかなにかでね。 鈴木 今、下山パーティーやってるの?最終下山日の前夜にはありったけの食料を出してデザートとか作ったりして。あれは楽しかったなあ。 南谷 下山パーティーといえば、スイカをもってったことはありましたね。あれはつらかった。毎回夏合宿には親切にもスイカを差し入れに駅まで持ってきてくれるOBがいましてね。 金沢 いたいた。ほとんど嫌がらせですよね。団装の発表とかで「差し入れ」とか持たされるといやでね。スイカっていちばんパッキングしにくいんですよ。 高坂 一度北アルプスの稜線の上まで持って行ったな。稜線の上なんか寒くてスイカ食う気なんかおきなくて。おまけに一週間くらいたってるから半分腐りかけてて。 鈴木 ゴミなんて今どうしてるの。ゴミを持つのもいやでね。僕らはある程度の量になると、燃やしてたけど。今は燃やしちゃいけないんだろ。 藤森 僕の頃は冬なんかは燃やしてましたね。鈴木さんがガソリンとかガンガンかけてね。(笑) 鈴木 ゴミ燃やしちゃいけないってのは大きな変化だよな。あれ、ものすごい量になるでしょ。 小沢 荷分けでも嫌われるのがゴミとガソリンと鍋。それから凍ったテントも入らなくて苦労したな。これをどう分けるかが問題でしたね。(笑) 金沢 森さんの頃って、ボッカやシゴキはまだありましたか。脱走とか。 森 僕らの頃はもうなかったよ。 鈴木 シゴキはあったんじゃない。僕知ってますよ。ピッケルで太股グイグイつっついたり、後ろからバーンてたたいたりしてた人。 森 あれってシゴキなの?(笑)俺らの代は感じる奴がいなかったんだよ。みんな鈍感だったから大丈夫だったんだよ。 藤森 シゴキじゃないけどウンチングありましたよね。 高坂 あったあった。ウンチング一時間とかね。まだ歩いてる人がいるとザック下ろしちゃいけないんだよな。他の登山者が「おろしてもいいんじゃないの」とか言うと、「いえ、まだ歩いてる人がいますから」とか言ってね。 南谷 はたから見ると異様な光景だったんでしょうね。僕らの頃でも、荷物を下ろしちゃいけないってのはありましたけど「ウンチング」はなかったな。立ってるよりつらそうじやないですか。シゴキなんてとてもできませんでしたね。やめられたら部の存続に関わるような人数でしたから。 |
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