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tome VII - コラム2
山荘建設の裏話(1986)近藤隆治(昭和30年卒) 八ケ岳に山荘が完成したのは、つい先日のように思われるが、もう七年も前になる。あのAAC八ケ岳山荘が出来上るまでには多くのエピソードがあるが、枚数に限りもあることで、その中の一部を書くことにする。 今から30年前にもなろうか、よく山岳部主催の山岳映画の夕べをやったものだ。勿論、山小屋建設資金集めと称して、女学生や知人へ、切符を押しつけたりしたが、それでも結構、満員だった。売り上げは一回五万円位だったが、とうてい山小屋を建てる資金には焼け石に水だった。
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これがきっかけになり、自分たちの力で土地を買い、山荘を建てる意欲が一段と増した。いろいろ場所の研究をしたが、やはり東京に近い中央道の近辺で、合宿での思い出の多い八ケ岳山麓に決めた。 |
「普通のお客さんは風よけの林があって、近所に川があって便利で住みよいところがいいのに、山屋さんは一寸連うねェ」と上野さんは首をかしげていた。 日曜、祭日になると土地を見に現場へ行った。帰りには不動産屋の案内で、甲斐小泉の駅の傍にある"つぽや"で鱒のさしみ、塩焼き、地酒を飲んで語り合い、挙句のはて不動産屋に勘定を払ってもらい帰京した。何回も行くうちに「下見に行く」というと不動産屋は迷惑そうな態度をとるようになってきた。"つぽや"であのように飲まれてはかなわないと思ったのだろう。案内をしている途中で帰ってしまうようなこともあった。 |
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そうこうするうち、甲斐小泉から下ったところに広々とした展望のよい理想通りの土地がみつかった。中村さんはじめ建設委員会の承認もおりた。資金集め、小屋の設計も並行して拍車がかかった。
まだ全体のメドがつかない関根は、不動産屋をわれわれに紹介した責任上、非常に心配している。それは募金の裏保証もないし、いざとなったら自分でかぶる位の気持でいるらしい。設計を頼んだ溝口(昭和38年卒)には委員会の度に設計上の注文がでた挙句何回も何回も書き直しが続いた。多分三十回以上にはなっていただろう。こうなると自分としても責任がどんどん重くなり、仕事も手につかず毎日小屋のことが頭の片隅から離れず、ますますプレッシャーがかかった。 |
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佐近さんがこの土地に来た記念にと立ションをし乍ら言った。「近藤、これは都会の音だなあ。」成程、ダンダンダンダンという音が響く。「ああ、あれですか、隣の川で護岸工事でもしているのでしょう。」というと「あーそうか。」と不思議そうな顔をして佐近さんは「帰りに見て行こうか。」と言った。 行ってみて本当に驚いた。なんと土地のすぐ傍に空カンの打ち抜き工場があり、五、六台の機械がフル回転していたという訳だ。これでは安堵感どころか都会よりもずっとひどい喧燥であり、本当にあきれてしまった。 |
すぐに契約を解除するか、土地を他に替えてもらうかとまっ青になった。佐近さんは「大の大人が多勢で何回も来ているのに気がつかなかったのか。」とカンカン。困ったとは言っていられない。甲府にすぐ走った。午後二時の不動産屋には誰も居なかった。自宅に電話しても休日であることで連絡がつかず、とうとう喫茶店で五時間も待った。関根は「近藤さん、売買契約書に印を押したのだから、もう駄目ですよ。」と言う。「120万円捨てたと思って諦めなさい。」「とんでもない、これは皆の大事な金だ。」「転売すればいい。」「しかし工場の近くの土地ナンカ売れやしない。」と喧喧ごうごう言い合った。 ついに連絡がついた不動産屋はこう言った。「私も全然知りませんでした。いつも見に行くのは、日曜祭日でしたのでネ……。」この様な騒ぎの末に替えてもらったのが現在の土地だった。同じ地主が持っていたことと、娘の嫁入りも間近かということでスムースに事が運んだのだった。又、土地を山林から宅地にするのも時間がかかった。 一方、資金集めの方は、中村、近藤、三島(昭和33年卒)が担当していた。それに僕の会社にいる福田さんと家の女房を使って募金の内容書を何回も書いて、コピーし、発送する毎日であった。 |
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