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tome VI - 随筆・紀行1 |
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〜ツクチェ・ピーク偵察行〜 山田 新 |
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タンボチェ・ゴンパの祭り「マニ・リムドゥ」は毎年11月末か12月初めの満月の翌日に行なわれるという。この年は11月23日からだった、二日目の24日。朝七時すぎから、3米はある長大なラッパがブォォーと低い音をこの谷間一ぱいに響き渡らせた。八時半、ローツェの連峰にまばゆい光を当てていた朝日がようやくこの寺院にも光を運んできた。同時に寺院の中庭で式典が始まる。ドラやホラ貝、ラッパ、シンバルがにぎやかに鳴り出した。中庭のまわりの観覧席はもう、近在のシェルパたちでぎっしりうまり、はなやいだざわめきで満ちていた。やがてラマの踊りが始まった。きらびやかな衣裳をつけたラマが音楽に合わせ、ゆったりと舞った。ブオッ、プオッ、シャンシャン、ふと眼を上げると、口ーツェ、ヌプツェの稜線にちょこんとエベレストの頂きが顔をのぞかせ、雪煙をたなびかせていた。身がキンと引締まるような冬晴れの冷気。音楽が青黒いまでに晴れ渡ったヒマラヤの空に吸い込まれていく。アマ・ダブランの尖塔が白く輝やいている。これほど大らかで壮厳な自然を舞台に行なわれる祭りはほかにあるだろうか。ふと夢を見ているような気持がした。踊りは踊り手が替わっていつまでも続く。 集まったシェルパ女性たちは、日本の田舎の農家の女性に実によく似ている。真赤なほっぺたが健康的でたくましい。踊り手が退場するとき、フラダンス風に腰を振っておどけてみせると、腹をかかえて笑い転げていた。 見物の外国人が多いことは驚きだった。平和部隊のアメリカ人、ジュリーとジャフ、BBCのTV取材班、ドイツ人教授、カナダの駐印大使一家(ヘルタによると)、いかにもフランス人らしい男女……。寺でも外人用に特別の観覧席をつくり、10ルピーずつ布施を集めていた。その代り、紅茶と菓子のサービスがあった。そして、外国人の胸には日本製カメラのオンパレード。ニコン、マミヤ、ペンタックス……。ヘルタはやはり日本製の大きな二眼レフを振り回し、飛び歩いている。シェルパ二人が交換レンズやバッグをもってヘルタを追いかけるのにおおわらわだった。ヘルタによると、ドイツにはこうした珍らしい光景を撮したフィルムをひき取って売る店があり、結構いい値がつくらしい。どうりで、やたらにシャッターを押しまくるわけだ。ずいぶんガッチリしている。 踊りは夕方までえんえんと続いた。この日午後、同志社大山岳部の石川博さんがタンボチェに着いた。石川さんの連れているシェルパ、ハサン・ダワが「今夜は面白いよ。サムタイム、ダンス、サムタイム、スリーピングね」といって笑っていた。かなり開放的な男女関係があるらしい。祭りの夜の部は、暗くなってから、広場でたき火の回わりにシェルパ・ダンスの輪ができた。これまた、いつまでも続いた。 25日。祭りの最後の日だ。ヘルタのシェルパに聞くと、昼ごろからたき火をして終わりだという。さきを急ぐ私はそろそろ行かなくてはならない。荷物をまとめ、ヘルタにさよならをいった。ヘルタは「ビラトナガールまで歩くなんて時間がかかりすぎる。私があなたなら、きっと飛行機でカトマンズに帰るわ」とあきれ顔だ。ヘルタはいきなり私にほうずりをした。石川さんが見ていて恥かしい。さて、いよいよ一人きりの旅だ。少し気が重くなった。 |
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タンボチェから下り坂をどんどん下った。イムジャ川を渡り、少し登ると道が二つに分かれる。右はクムジュン、左はナムチェ。ここまできて、クムジュンに老アヌルーがいることを思い出した。1953年のエベレストをはじめ、大遠征隊に数多く参加した筋金入りのシェルパだ。ルクラで飛行機から降りてきた初対面のシェルパがいきなり「日本人のイノクチ・サーブを知っているか」と私にたずねた。私ははっとした。ローツェ・シャール隊に参加した私の先輩に、井口さんという人がいる。いろいろたずねて、このシェルパが井口さん付きだったアヌルーとわかった。 あの温厚な顔をもう一度みたい、と思った。クムジュンヘの道を選び、アヌルーの家を訪ねた。昼間から近所の家で飲んでいたアヌルーは飛んで帰ってきた。真赤な羽毛服を着て、歓迎してくれた。この秋、ユーゴスラビアのアンナプルナ2峰隊にサーダーとして参加したという。自家製のチャン(地酒)をどんどんついでくれる。「あなたはどこに住んでいるのか」「東京だよ」「ふーん、イノクチ・サーブと同じ村だな。東京はカトマンズより大きいかね」まるで万才だが、楽しかった。アヌルーが止めるのを振切って先を急くことにする。奥さん(前の奥さんがローツェ・シャール登山の最中に亡くなり、その後再婚したらしい)が、私の肩に白い布(カタ)をかけ、マニ車を回わして前途の無事を祈ってくれた。シェルパのお別れの儀式だ。アヌルーはユーゴ隊から持帰った粉末ジュースまで持たしてくれた。ちょっとすれ違った程度の間柄なのに。胸がぐっと熱くなった。さよならアヌルー。 |
11月27日。ルクラを出発した。飛行場の傾いた滑走路を谷に向かって下りながら、「いまなら引返してカトマンズ行きの飛行機に乗れる」という誘惑と戦っていた。かぜ気味のせいか、背中の荷物はやけに重く感じるし、天気も曇っていまにも雨になりそうだ。だが、足はどんどん前に出て、間もなく、登り返す気はなくなってしまった。一人きりで歩くと、ちょっとピッチが上がりすぎるようだ。息が切れた。 カルテという部落の上から、ドゥド・コシの谷に沿った"エベレスト街道"を離れ、東へ向かう道に入った。これからは不完全な地図が頼りだ。人に全く会わなくなった。エベレスト街道に比べると、この道は完全な裏街道だ。暗くなって、ようやく最初の人家にたどり着いた。この家ではこころよく泊めてくれた。やれやれ、この日はくたびれた。 人のよさそうな若主人はペンバ・ギャルツェンといい、インドのエベレスト隊のメイル・ランナーとして働いた、との証明書をもっていた。30歳、夕食は家族と同じ、ゆでたジャガイモですませた。塩を切らしたといって、私には最後の岩塩を砕いて出してくれたが、家族はトウガラシだけで食べた。ナムチェ周辺のシェルパの家に比べると家具が少なく、身なりも粗末だ。 夕食後、ペンバはポーターとして雇ってくれないか、ときりだしてきた。渡りに舟。体調を崩して、実のところ荷物が重くてしかたがなかったのだ。ダーランまで一日六ルピー、食事付きで話が決まった。 翌朝、ペンバは旅の用意を手早く整えた。といっても、小さなナベニつとトウモロコシからつくったツァンパ(麦こがし)を袋に詰め込んだだけだ。それに私の荷物をのせ、私たちはペンバの奥さんに見送られ歩き出した。私のカゼは本格的となってきた。はなをずるずるすすりながら行くと、ペンバが「ラマコ・ダバイ(ラマの薬)」といって道ばたに生えていた草をつんで私にさし出した。優しい心遣いがうれしい。モノは試し、口に含むと強烈な苦味が口の中にあふれた。これは効きそうだ。この日は峠を二つ越した。道は通る人もなく、落葉でルートがわからなくなるほどだった。落葉樹の育つ低いところまできた、という感慨もあった。キラウンレ部落に泊る。 |
参考リンク: マニ・リムドゥとシェルパ文化 著者近況 |
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29日朝、ブング部落にさしかかった。「耕して天に至る」を地でいくようた村だ。ホングー・コーラの谷底まで、標高数百米に渡って急な段々畑が続いている。一軒の家で結婚式をやっていた。私とペンバもチャンとご飯のおすそ分けに預かった。ヒャラヒャラと笛の音がして、ときどき、爆竹が景気よく鳴った。ペンバがチャンをもう一ぱい、と所望している。大丈夫かな。ペンバの顔はもうゆでダコみたいだ。酒に未練たっぷりのペンバを追い立てて歩き出したら、案の定ふらふらだ。「私はラマだ」と自称し、朝晩、もったいつけて「オム・マニ・ペメ・フン」とお題目を唱えているが、仏さまもびっくりの生臭ぶりだ。気の毒だが、旅行許可証の期限が切れそうだ。ゆっくりできない。「契約を果せ」とばかり、ペンバを叱陀激励した。なんだか夏山合宿みたいだ。 30日。サルパ・ラ(峠)を越えた。このあたりでシェルパの住む土地は終る。ラマ教圏最後の砦のように、峠の中央に経文を刻み込んだ巨大なマニ石がすえてあった。ペディ部落で食料調達をこころみたが、なぜかだれ一人として売ってくれない。すると、ペンバは「まかせておけ」とばかり、二、三軒回わり、野菜と塩、砂糖を手に入れてきた。「わたしゃラマだからねえ」と左手に巻いた数珠を見せた。つまり、"托鉢"してきたのだ。これには驚いたが、おかげでこのときは助かった。托鉢の相手から「どこへ行くのか」ときかれるとペンバは「友だちと一緒にダーランまで旅をしている」と答える。普通のときは「サーブの荷物を運んでる」だ。 |
標高が低くなるに従って、歩くと汗も出るようになった。ワキの下などがあたたまってムズムズする。メンパン部落を過ぎたところで、がまんできず、川で水浴びした。シャツを脱ぐと、なんとシラミがうじゃうじゃいるではないか。戦後生れの私としては、シラミとはこのときが初見参だ。シャツの繊維にからみついたシラミを石ころでつぶしたが、きりがないのでやめた。このシャツはペンバが欲しがるのでゆずった。にっくきシラミ。心当たりがある。ペンバが、夜寝るときだけ私の羽毛服を借せ、というので渡していたのだ。どうも羽毛服を通じてうつったような気がする。「ペンバ。あんたのズムラ(シラミ)がぼくにうつったよ」というと、ペンバはむきになって「ズムラなんかもってない」と云い張っていた。そうかなあ。 ナムチェで、普通のネパール人の服装が寒そうだったように、低地にきてペンバのチベット服が異様になってきた。高地育ちのペンバは暑いので、肌脱ぎになり、底に穴のあいたチベット靴も脱いでしまった。12月1日、アルン河を丸木舟の渡し舟で渡る。一人50パイサ。 6日、とうとう電灯がつき、自動車が走る世界にたどりついた。ダーラン。ペンバは眼を見開き、キョロキョロしどうしだ。洋服を着ている人が多い目抜き通りで、ペンバと私はひどく田舎者にみえたに違いない。 7日朝、ピラトナガール行きのバスが動き出したとき、窓の外でペンバが両手を合わせナマステ(さようなら)して見送ってくれていた。ぼろぽろだったチベット靴の代りに、真白な運動靴をはいて。私も手を振った。見送るペンバの姿が、バスが舞い上げる砂ぼこりでかすんだ。 |
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東ネパールの旅では、カンチェンジュンガが見たい一心で、アルン河からわざわざチャインプールを経由してミルキア尾根に登ったのに、あいにく尾根を歩いている間は曇り空だった。カンチさえ見ればネパール国内の8000米峰は全部おがんだことになる。念願はビラトナガールからカトマンズに向かう飛行機の中で果たした。カンチは肩をいからせ、ぼおっとかすんで見えた。 (1965年卒) |
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text by s.yamada, photo by s.yamada and n.takano ('98)
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