[chronicles]



1972年度をふり返って

藤田信一



昭和47年度は、4月10日、那須朝日岳において、高松武信(当時高二)、坂本道哉(同中三)両部員を雪崩により失なうという悲しい幕あけに始まり、麻布山岳部にとっても、リーダーの僕にとっても苦しく、多難な年となった。

山、殊に冬山に出かけて行く以上、遭難の危険は常に考えていなければならない。

事実他校においてはしばしば不幸な事故が発生していたが、幸い麻布山岳部は創立以来、事故らしい事故を起こしたことがなく、それだけに二人もの死者を出したことは、現役部員、部長、OBを含めた全ての山岳部関係者に大きな衝撃を与えた。

一方、学校に無届けの登山であったこと、高校生には技術的に無理と考えられている雪山登山であったことなどから、当時の山岳部の体制では、事故は起こるべくして起こったという見方が一部関係者の間にあり、今後の山岳部の在り方を改めて、検討が加えられることになった。


まず第一に問題にしなければならなかったのは、部員の山に対する考えの甘さである。あの遭難に関しては、僕自身も当事者の一人であるが、今になって思えば、充分な実践的知識も持たないまま、ガイドブックを頼りに山に登り、計画も綿密でなかったなど、悔まれる事が多い。

地元の人の話では、遭難現場はそれまでも、しばしば表層雪崩が起っていた所だそうだが、未熟な僕らにはそれを見抜くことができなかった。三人が続いてトラバースしなければ雪崩は起きなかったかもしれない。しかしそのような判断力を持てるほど、僕らには山の経験がなかった。

それに気がついたのは事故が起ってからであり、全体として山をみくびっていた山岳部の雰囲気が大いに反省された次第である。


次にOBと現役部員との間に緊密な協力体制が取られていなかった事にも、原因の一端があったと思う。

当時は、下級生を指導する立場にある上級生が少なかった上、最上級であった僕にしろ高松にしろ、途中から入部したために山の経験が乏しかった。加えて麻布は受験校であるため、代々三年生から充分な協力を得ることはむずかしい。

結局、OBに指導をお願いするよりなかった状況ではあったが、そのOBとの連絡が疎遠であったため、部員に充分な指導がゆき渡らなかった。OBとの連絡不備については、自分達だけで山岳部を運営できると思い込んでいた僕らに責任がある事なのだが、事故以来、今迄お会いしたこともなかった諸先輩が、積極的に山岳部再建に力を借して下さり、改めて山岳部に流れる伝統の重みと連帯の強さを知らされた。


この年の山行は、4月26日の那須追悼山行を初め、雲取山、八ヶ岳における夏合宿、秋の丹沢等があったが、OBの誰れかしらが必ず参加して、部員の指導に当って下さった。しかし、山における活動はこの年のOB会の仕事の氷山の一角であるといってよい。

この間、OB会臨時総会が開かれて、山岳部の今後の方針が話し合われ、また、岩燕追悼号の編集のため、何人ものOBが忙しい時間をさいて、その任に当って下さった。日常の活動においても、小倉氏、三島氏、小林氏、林氏、森氏等のOBが頻繁に、様子を見に来て下さり、山岳部の体制を根本から建て直すべく努力が重ねられた。佐藤氏が部室の壁を塗り直して下さった事も、忘れられない想い出の一つである。


このような、OB諸兄の、暖かなご支援があったにもかかわらず、山岳部の状況がなかなか思うようにならなかったのは、一重に、リーダーとしての僕の不甲斐なさが原因であって、先輩諸兄の尽力を思うと、誠に申し訳けなかったと云う思いでいっぱいである。

だが最近の山岳部の活動状況をきくと、部員も20名に増え、OBとの協力体制も確立しているようなので、山岳部OBとしては、一安心と云うところである。


(1976年記)




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