[chronicles]



1995年度をふり返って

安達秀一



それは、ほんの偶然から始まった。私が中二の時に顧問の野本先生に誘われ、山に登ったことがきっかけであった。山本といっしょに中三の夏に山岳部に正式に入部したが、その時は高二が二人だけ、しかも、もう少しで引退してしまうという先細りの状態であった。

それから、私と山本は高一の始めに、いきなり執行部となるのである(といっても部員は二人、部長と会計だけ)。しかし、私たちの代でついに終わりかと考えていた矢先に、私は同じ偶然で、野本先生が勧誘した中一が二人入部し、その一ヶ月後には、岩佐先生の勧誘で中二が三人入部した。これで、一挙に部員は七人になったのである。ここで、よくまわりを見まわして見ると、本当に私を含めて、全員、経験がほとんどなく、顧問の先生におんぶにだっこ、という状態であった。しかし、無い知恵をしぼり、先生と話し合いながら、夏合宿を決行したのである。夏合宿では、七人中五人がバテ、真夏のギラギラ照る太陽のもと、コースタイム3時間ほどのところを、9時間もかかった。けれど、激しい日焼け(日焼け止めを誰も持っていなかった)と疲労と闘いながらも、部員間のコミュニケーションもスムーズになり、このパーティーでの仕事の能率も上がってきて、力がついてくるのを実感できた。また、普段の部活においても週に一回あるか、無いか、だったものを、週三回と決め、全員に徹底させた。こういうことなどから、チームワークは良くなってくるのだが、何とも、体力だけはあまり付いてくれないのである。けれども、この調子で9月、10月、11月と山行をこなしていき、私たちも少しずつ、自信を深めていった。また冬は、前年に引き続き、OBの方の紹介でザイラーバレースキー場に行き、全員スキーをするという、大変愉快なものだった。しかし、私が次の年の夏より海外へ留学してしまうため、またあわただしくも、同学年の山本へ1月山行の時より、引き継ぎの準備をしなくてはいけなくなったのである。そんな中で、順調に時は経過して行き、春合宿へと移っていった。この合宿では、私と山本以外は全員アイゼンは初めてで、11月山行で雪は少し経験しているものの、処女航海に等しかった。そして、これもやはり、先生方に多大な面倒、迷惑をかけている。先生ありがとう。そんなことが終った後、私たちは少数精鋭(?)で家族のように和気あいあいとしながら、恐怖の新入部員勧誘へと向かっていくのである。

なぜなら、生徒から自主的に部員になりたいと言ってきたのは、6年前が最後であり、後は先生たちの必死の勧誘の成果によるもので、私たち部員は常々から、山登りは時代に逆行していると考えていたからである。ところが、4月の勧誘で何と仮入部が30人以上もあり、これはすごいと、興奮していたのだが、オープン山行には2人しか来ず、結局入部者はゼロという結果に落ち着いてしまった。そんなこんなで私は、1996年5月いっぱいで、部を引退したのだが、私と山本は最悪の時にいたのだと、いまさらながらに実感できる。なぜなら、部員もいない、先輩たちはあと少しで引退、私たちは経験もない、というように三拍子そろっていた。この中から、部員七人をまとめ、予算を取り、私たちが知っている限りのことを伝え、部を立ち直らせ、後の代まで伝える形にできたということは、誇れるものだと思える。

この一年、変化に富み、やりがいがあり、一生懸命だった。また、麻布の中にいる間で、最も有意義で、最も永く感じた一年間であった。人に指示し、物事を遂行する、上に立ち、広い視野を持つ、常に冷静である、ということができるようにもなり、それをサポートしてくれた先生方、OBの方々、また山本、後輩のメンバーに、そして山岳部に入った偶然にも、今はとても感謝している。

(1996年記)




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