[chronicles]



1993年度をふり返って

池永龍平



僕が山岳部のリーダーを務めたのは、1992の冬合宿(北八ヶ岳)から1993の冬合宿(奥秩父)まででした。1992年の夏、当時のリーダー宮島と、我々下級生の仲は非常に悪く、宮島は「夏合宿終了と同時に退部する」と発言し、下級生は、それをどうとも思わない状態。幸い夏合宿(北アルプス北部縦走)は成功しましたが、福井・宮島の高二は以後、山岳部とはほぼかかわらなくなりました。今では、まあ和解状態なのですが、当時は部全体が何やら切迫していました。そんな中でリーダーの後継ぎは村松(高一)として、たて直しをはかろうとしましたが、こういった部のゴタゴタを黙ってみていた中一、三人のうち二名が、他部に引きぬかれ退部、さらにリーダーの村松が、家庭の事情で退部、挙句部員は四名に減りました。それが冬合宿の手前のことでした。急きょ村松と同学年の僕(池永)がリーダーとなり、冬合宿は何とか無事に乗り切りましたが、年明けて1993の2月、唯一残っていた中一の山崎が、掛けもちしているスキー部に専念したい、という理由で退部。結局僕は部をまとめられず、中一に逃げられるといった、非常に情けない部の状態は、先生方を激怒させてしまいました。

4月、我々は必死で中一勧誘をしましたが、オープン山行も空しく、運悪く結局一人も入らず、僕も段々山岳部に嫌気がさし、部活動(トレーニング)も馬鹿馬鹿しくなり、自主トレ専門と化してゆきました。山岳部としての活動は、スベアや天幕外張を買い替えたり、金を使ったことでしょうか。しかし僕も、土肥も林(高一)も、山への情熱だけは失っていなかったので、夏合宿(飯豊)、冬合宿(奥秩父)とも、充実した合宿を行うことができました。高校生だけなので計画もたてやすく、各係も慣れ切っていて、山の上でもトラブルが起こりにくく、下級生に技術を伝授する必要すらないので、合宿を無難にこなすのは至極当然なのですが……。

冬合宿が終了し、下級生が全くいない危機の中、楽し放題の僕は、勝手ながら引退させていただきました。ほぼ同時に、中二の安達と山本が、野本先生の尽力により入部してくれ、僕はつくづく情けないリーダーだったなと後悔するばかりです。現在(96年3月)、部員も七名に増えましたが、どうか僕たちの時のようにつまらない争いをして、部内をバラバラにしないようにしてくださいね。上級生は下級生を思いやる心を忘れないでください。下級生は上級生のことを理解してやってくださいね。最後に、増子先生、野本先生、岩佐先生、迷惑ばかりかけまくって本当に済みませんでした。感謝しています。梅村さん、宮島さん気苦労かけさせていたら御免なさい。メシ作りが死ぬ程上手だった土肥君、リーダーより荷物を持ってくれた林君、頼りないリーダーについてきてくれて有難う。皆さん有難う。

(1996年記)




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