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[chronicles]
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1954年度(昭和29年4月〜30年3月)をふり返って[2/2]佐藤信安 |
[前頁からのつづき]
夏山が近くなり計画、準備等毎日遅くなる迄部室でがんばった事、先輩の御宅をかけずり廻った事など今考えると楽しい想い出の一つだが例年と異り中学生が部員の半数をしめる状態なので高校と分けて中学だけの合宿をする事になり、研究会も盛んになり又指導して下さる先輩も二人三人と増え熱が入ってきた。しかし先輩諸氏の各々異った意見、現役の考え方に差が生じ僕自身ずいぶん迷ったがOB会の方々の力でOB全体の代表として小倉先輩が指導委員として全ての点において力になって下さって、なんとか高校部員は剣、立山、針ノ木縦走合宿。中学部員は奥秩父全山縦走と決った。学期末試験が終ると直ぐ本格的な準備に入り研究会では責任者を決めてコース、装備、食糧、気象、露営等の研究発表を行い浦松佐美太郎氏の岳の論文などを読み合ったりして間接的にも山に対する興味を持っていくよう心がけた。トレーニングはランニングを主とし青山墓地から神宮外苑のコースから時には明治神宮迄足を延したり校庭に天幕を張って時間を計ってみたり、兎に角出来ないながらも、せいいっぱいやっていたと思う。ただ高校合宿はコーチとして参加される後藤氏が大学山岳部合宿のため時期が遅くなり、それによって都合の悪くなった部員が何人も出て結局現役参加者が三人となってしまった事は残念な事だった。 夏山合宿も終り暑中休暇も残り少くなくなる頃、高三部員の間で「来春は最後をかざって一つ大きな所をねらおう」という意見が出はじめ、さっそく近藤氏の家へ呼ばれて相談を受けたが我々としても異存のある筈がなく学期始めのリーダー会で北岳、鹿島槍の二候補をたてOB会にかけて麻布学園山岳部創立以来初の「北ア積雪期合宿」(鹿島槍岳東尾根)が決定した。この計画は当時の部から見ればあまりにも飛躍すぎる程の大計画で現役部員の実力から見て無理過ぎる、OBがついていくべきだ。等OB会員の方々の間でも反対される方がずいぶんいたが「春山は現役」という我々の情熱がり準備委員会も作られ未知の岳への研究が開始された。しかしこの頃の計画は最終計画とはずいぶん異ったものでそれは大学受験を簡単に考え高三全員参加のつもりで行動、装備等計画をたてていた事も原因の一つであった。ただ特に書くとすれば例年と異り今回の春山だけはリーダーを近藤氏にゆずり僕がサブとして参加する事になった。準備も10月の修学旅行を利用した神原、水野両氏の無雪期ヤブコギ偵察も鹿島部落の狩野氏宅での食料、燃料、小屋等の交渉が予想以上に順調に進み、それをもとにして研究会も熱が入り出した。 鹿島の計画とほとんど同時にOB会により提案されたものに映画会がある。これは学校山岳部と異りどこからも資金の援助のないOB会が山岳部創立八周年を記念して遭難対策、器具購入等の目的で麻布学園山岳部共催で行うと云うもので現役側からも準備委員が選ばれたが不幸にも中学二年の相模湖事件により現役側は身を引きOB会主催で我々はそれを助力する事に決めた。この準備は小田先輩が主となって進めて行ったが詳しい内容は以上の理由であまり覚えてない。ただ天然色の素晴しいポスター「山岳部創立八周年記念・山岳、スキー映画のタ.福原健司作品集、栗田栄解説・1955・1・26・於共立講堂」を見てこりゃすごいと胸をふくらませていた。但しそれ以上にすごかったのが一人 30 枚、50 枚と割当で受けもたされた切符であった。五枚十枚ならなんとかさばけるがまとまるとなかなか....友人知人だけでは、とてもさばききれず放課後、東洋英和や東京女学館へ売りに行き教師に始末書をとられる等、まあさんざんだった。幸にも当日は満員御礼の大盛況で黒字を記録したのだが僕は控室で荷物の番人をやっていたのだから他の方々もさぞ大変だったろうとお察しする。 冬山が近づくにつれて器具、装備の点検、不足器具購入等に急がしくなってきたが小倉氏の意見でナイロン・ザイル 40 メートル、一本、30 メートル二本)を揃えたのもこの頃だったと思う。冬山は昨年同様富士において氷雪技術及び雪中幕営習得を目的として行う予定だったが合宿前に積雪期の東尾根を見ておく必要がある事、部落での準備等冬休中に一度行くべきだとの意見がOB会から出され身体の自由な宗像が現役を代表して小倉、小田、内田、青木の各先輩と行くことになり冬富士はそれにさきだって現役、OB共同合宿として行れた。中学生の冬山は大菩薩嶺、春山は雲取山と決り次代を目指して張切っていた。新春以後件各自のスキー行、又映画会をのぞいてほとんど春山の準備についやされたが、その事は鹿島槍報告にゆずりたいと思う。 こう書いて来るとずいぶん堅いガリガリの部の様に見えるが全く反対で実になごやかな愉快な連中の集団でありタコにカンチョにパンティー、アカチ、ザルにカーボーイとまるで寄席の楽屋みたいなるものだった。特に合宿終了後部員の家へ集ってスキヤキに舌づつみをうちながらの想い出会は山岳部ならではの楽しい会だと思う。山行も部の山行以外は自由にあちこちでかけて行ったが富士山の大雪崩の前日近藤氏と二人で吉田大沢をポコシヤンポコシヤン歩いた楽しさは今でも忘れられません。当時の中三は今でもそうでしょうが?オカンが好きで日曜のたびに丹沢や奥多摩ヘビニールをかぶりに出かけていましたがこの頃は天幕の奥でないと寝られないなどとすごい事を云っている。想い出はつきない程あるが枚数が少くなってきた。僕が山岳部に入って何万時間?先輩に頭をたたかれながら、なんとか山岳部の在り方がわかってきた時には立派なアルバムを前にして「この様な盛大な送別会を開いて戴きまして....」などといっていたのだからどうも....現役時代やろうと思っていて出来なかった事、やるべき事で気がつかなかった事等これからも麻布のために出来るだけ力になって行きたいと思っている。 最後に麻布学園山岳部並びにOB会の発展を心から切望する次第である。(1958記) |
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