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合同葬に参列して山田新(1965年卒) |
2月28日、盛岡市の岩手医大で行われた故・堀口正治君の合同葬(関係各教室と堀口家による)に参列した。
同医大理事長らの弔辞を聞きながら、堀口の教育者、研究者としての生活を想像した。「とにかく、いうことを聞いてもらえなかった」など、弔辞には珍しく率直な故人評もあり、個性的な一面をいかんなく発揮していたようである。 1986年秋に当時医学部長だった理事長が、東北大に堀口助教授の「もらい」をかけに行った。同年暮れ、岩手医大に教授として赴任したが、解剖の実習が始まると、早速、真夜中の2時、3時まで学生を連日しごきあげ、医学部長のところに「これでは落第してしまう」と、父母から抗議電話が殺到したという。それを堀口教授に伝えると「落第なんか、私はさせません」と平然としていた。「いや、先生の講座じゃなくて、ほかの学科のことです」。理事長の述懐に、ほとほと手を焼いた実感がこもっていた。まだ若くエネルギーと情熱にあふれていたのだろう。最近は、さすがに丸くなっていたようだ。 |
その後、盛岡駅近くのホテルで「偲ぶ会」が開かれ、北大医学部在学中の長男・貴行君があいさつした。仕事に打ち込むあまり、父子のコミュニケーションはあまりなかったようで、「そんな父を好きになれなかった」という。だが、医学部に進学し、休みに帰省して父と一緒に解剖を経験し、父親の解剖学への情熱を理解したそうだ。「私が父と同じ道を歩み始めたことを、父が喜んでいたことも知りました」とも語っていた。
今回、教授と一緒に雪崩に流され、大けがをした山岳部の学生が次のような話をしてくれた。事故の2日前、堀口先生に会いに行ったら、「おれは試験前に学生と話をしない」と、いつになく怖い顔になった。翌日、解剖学の試験だった。「いや、山のことです」というと、「あっ、そうか。で、なんだい?」とやさしい顔に戻ったという。そんな感じの先生だったんだね。 同医大山岳部も、ご多分にもれず部員不足をかこっていたが、しばらくぶりに新入生を迎え、この冬は堀口が古いスキーや靴を与え、自らスキーの手ほどきをするなど、張り切っていたという。本当に山を愛し、山に向かう若者を愛していたのだなあ。 奥さんによると、山で麻布山岳部の仲間と一緒に映った写真を自宅の机の上にいつも飾っていたそうだ。彼にとって麻布山岳部の記憶がいかに大事だったか、分かる。ぼく自身、麻布卒業後は大学山岳部に入り、その後も断続的に山登りを続けてきたが、高校時代の山の記憶が最も強く、突き抜けるような明るい光に包まれているような気がする。感受性の強い年代だけに、山に登るたびに新しい経験をし、楽しくてしかたがなかったのである。その記憶には、常に堀口ら仲間の姿がある。堀口もそうだったのだ、としみじみ思った。■ |
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