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堀口正治君をしのぶ山田新(1965年卒) |
あの堀口が雪崩に埋まって逝くとは、信じがたい出来事である。なにか書く気には、なかなかなれなかったが、彼については、同期のぼくが語る義務があると思い直した。
堀口は、ぼくを山の世界に引きずり込んだ張本人だった。机を並べていた中3のときだったか、「山は面白いぞ」と誘ってきたのだ。水泳部にいて限界を感じていたこともあって、すぐ誘いに乗った。奥多摩の尾根筋を歩いているうちはまだよかった。そのうち、谷川岳一ノ倉沢の岩に取り付いて敗退、残雪期の谷川連峰で未知の雪渓を下り、堀口が雪解けの激流にさらわれかけた……このときは有田明もいた。怖いもの知らずのビギナーが犯す典型的な失敗をいくつか重ねながら、なんとか切り抜けてお互いに登山者として少しずつ成長した時期だ。 みずみずしい感受性にあふれた時期だけに、山へ行くたびに新しいことを体験し、自分の世界が広がっていく実感があって楽しくて仕方なかった。山岳部に所属した大学時代以降も、断続的に山登りを続けているが、高校時代ほど喜びに満ちた印象が残っている山はない。半面、無知と経験不足からくる危険にさらされていた。いま思えば、無事ですんだのは運が良かっただけだ。 堀口とはよく個人山行を重ねたが、ぼくが山岳部の合宿に初めて参加したのは高1最後の八ヶ岳での春山だったと思う。その後、ぼくの山登りは一気に過熱していくのだが、常に先達として、あるいはパートナーとして堀口がいた。堀口の豊かな登山知識に追いつこうと、必死で山の本をむさぼり読み、むきになってトレーニングに励んだものである。温厚だが芯の強い堀口と軽はずみなぼくだったが、なぜか気が合った。意見の違いがあっても、話すうちに必ず折り合えたのは、互いを信頼していたからだろうと思う。 高2になると、同期で最も経験豊富な堀口は当然、リーダーになった。夏休みに重荷を背負っての南アルプス縦走をやり遂げ、意気上がる秋口のこと。堀口と翌年の春山合宿は中央アルプス空木岳池山尾根と決め、二人で偵察に行くことにした。連休がないので、修学旅行、いや、遠足といったかもしれないが、それを休ませてもらうことにした。謹厳実直な担任の近藤先生(漢文)に恐る恐る許可を願い出ると、「気をつけて行きなさい」と、拍子抜けするほどあっさり認めてくれた。こういう点、麻布というのは実に面白い学校だった。ぼく自身は劣等生だったので決して居心地が良かったわけではないが、学校行事をサボって山に行くことを許す学校はそうなかろうと、いまになって思う。 伊那市と駒ヶ根市の間にある宮田村に、堀口の母方の親戚宅があり、偵察の入山前に泊めてもらった。もぎたてのリンゴや梅の砂糖漬けをはじめとする漬物の数々が印象深い。都会育ちでありながら、農村にも拠りどころを持つ堀口が、父親の転勤などで根無し草のぼくにはうらやましかった。池山尾根のルートは標高2500m付近まで樹林の中で、問題になるのはただ1カ所、ヨネ沢の頭から切れ落ちる斜面をトラバースする場所だけだった。好天に恵まれ、花崗岩のまばゆい白さに輝く空木岳山頂付近からの絶景に、「いいなあ」「うん」と互いにうなずき合った。春山合宿への期待はいやがうえにも膨れ上がった。 その春山合宿で堀口が意外な一面を見せた。中継テントから一気のアタックを狙って出発したが、時間切れで問題のトラバースを渡りきった地点からその日は戻った。翌日はトレースをたどってテントを上げれば、確実に頂上へ行けるはずだった。ところが、堀口は「下山する」と強硬に主張した。予備日は残っているし、下る理由がないのだが、リーダーがいうのだから仕方が無い。不承不承下山した。いつも積極的にみんなを引っ張ってきた堀口がなぜこんな判断を下すのか、不思議でならなかった。2、3日下山が遅れたって、それがどうしたのだ、と当時のぼくは考えていた。大分後になって堀口は「受験勉強が気になった」と部報「岩燕」に書いている。劣等生の開き直りのぼくと違って、真面目だったのだろう。 |
麻布卒業後、東北大理学部で地球物理かなにかを専攻し、山の方も山岳部に入って大いに頑張ったらしい。ところが、4年の途中で退学し、北大医学部を受験しなおしたのである。なにを思っての方向転換なのか、詳しく聞いた覚えがない。北大でも山岳部に入って雪山を中心に山行を重ねたらしい。合計10年の長い学生生活の最後のころ、学生結婚した。札幌での披露宴のスピーチで「音大出の母親をもつ堀口の都会的な面と、山で見せる粗っぽいたくましさ」を紹介したら、北大の仲間が「そうなんですよね」と、同意してくれた。
北大卒業後、東北大医学部の高名な解剖学の教授の下で助手を務めた。専攻は「肉眼解剖学」という、地味な基礎医学の分野である。教育面では医学生に不可欠の通過儀礼ともいえる人体解剖の実習指導を担当するが、門外漢のぼくらには気味の悪い作業を「俺は好きだ」と堀口は語るのだった。このころ、千葉県松戸市で駐在記者をしていたぼくの家に泊ったことがある。普段おとなしい男が悪酔いし「警察はけしからん。松戸署の看板を外しに行くぞ」と、暴れるのをふとんに押さえ込んで寝かした。「あのとき堀口さんが障子の桟を折ったのよね」と、家内が思い出しては口にする。ストレスを相当貯めこんだ時期だったようである。 じきに豪州の大学に1年間留学した。有袋類の筋肉がどうこう、といった論文を書いて締めくくったらしい。帰国後、「俺のところに日本で唯一のコアラ(禁輸の保護動物)の体がある」といっていた。彼が豪州で論文作成のためにさばいた1体だったかもしれない。相前後して医師免許を取るのだが、主任教授から「退路を絶て」、つまり解剖学を続けるなら、医師免許は取るなと迫られたことを打ち明けていた。でも、結局取得した。自分の決めたことについては頑固な堀口らしい。38、9歳のとき、教授として岩手医大に移った。その直後、西日本での学会に出席したついでに、当時、広島の我が家に寄ってくれた。すっかり落ち着いた印象で、家内は「さすがは教授。風格が出たわね」などと評していた。 盛岡では研究、教育、登山のいずれの面でも充実した生活を送っていたように思われる。たまに出張で盛岡に行き、時間があれば顔を合わせ、家を訪ねたものである。八幡平や岩手山など山に囲まれた環境が、堀口はことのほか気に入っていたようだ。一度だけ、盛岡近郊の山で山スキーを一緒にしたことがある。ぼくはスキー大会の取材の帰りがけだったと思うが、88年3月下旬、秋田駒ケ岳の秋田県側に回りこんで山中の、冬季で人影の薄い湯治場をベースに、乳頭山、女目岳と二つの山に登り、滑り下った。泊った温泉場では同行の学生が呆れ顔なのを尻目に、二人で大酒を食らって痛快だった。堀口とは麻布卒業以来23年ぶりの山だが、何の違和感もないのが不思議なほどだった。山の仲間はいいなあ、と実感する。まさか彼と最後の山行となろうとは考えもしなかった。その後も、しょっちゅう「また行こうぜ」と声を掛け合っていたのである。 |
女目岳スキー登山にて(1988) 左)故・堀口正治 右)山田新 |
近年はテレマークに熱中していた。戦前に流行したが、一時期忘れ去られていたスキー技術である。靴のかかとは固定せず、回転時外側のスキーが内側より前に出る。ジャンプの選手が着地のとき、片ひざを深く折るのをテレマーク姿勢という、あれだ。普通のアルペンスキーとは道具も技術も異なるが、雪深い山を登ったり新雪を滑ったりするには具合がいいといわれている。1980年代以降、北米で復活し、それなりの普及を見せている。堀口から「面白い。お前もやれよ」と何度か誘われたが、いまさら新しい技術を覚えるのも面倒くさくてやったことがない。 |
その後、市内から盛岡と宮古を結ぶ山田線というローカル線沿線の山の中に移り住んだ。朝の散歩代わりに裏山に分け入っていたそうである。夏なら沢伝いに稜線を目指し、冬は夏に確かめたルートをテレマークスキーで登り、滑っていた。地図を見ると、500mから700mくらいの低山だが、現住所の地名から「浅岸アルプス」と名づけて悦に入っていたそうだ。同僚の先生らも次々引き込み、テレマークの同志をつくっていたともいう。
最後に堀口に会ったのは2000年11月のことだった。渋谷のハチ公前で待ち合わせて飲み、酔っ払って駒場の有田の家に上がりこんだと思う。もっと頻繁に会っておけばよかったと悔やんでも、もう遅い。 長年登り込んだ登山者は、登り続けていればいつかは死ぬかもしれない、と心のどこかで思っているものだ。ぼくも何人もの山の仲間を見送ってきて、そんな気がしている。同時に「自分だけは死なない」と、根拠のない考えをもつのである。堀口は雪崩に巻き込まれた瞬間、しまった、と思ったに違いない。雪の中に閉じ込められて生き延びる希望が薄れたとき悔しかったに違いない。絶対こんなはずではなかったと。 奥さんは有田に「いまでも信じられない。いまにも帰って来そうな気がして……」と語ったそうだ。安置した遺体がそこにあってもそうなのである。葬式というのは、大切な人の死を信じたくない人間を、周囲が納得させる儀式なのではないかと、思い至る。堀口も残された人間が大切なら、「儀式ばったことはいやだ」などというなよな。2月の研究室葬には顔を出すよ。じゃあね。■ |
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