|
||||||||||||||||
|
||||||||||||||||
|
小倉茂暉君を追悼する小田薫(1948年卒) |
2004年(平成16年)6月6日16時36分小倉は都立府中病院で、董子夫人(通称ブーチャン)に看取られて73年の生涯を静かに終えた。1日の夜危篤状態との知らせを近藤より聞いて、2日午前中お見舞いに行ったが酸素吸入・点滴などの治療がなされていて本人は熟睡中だったので話をすることは出来なかった。董子夫人の話では5月27日食べ物が呑みこめなくなり緊急入院したがその後昏睡状態になったとの事。昨年6月20日に入院して7月7日に食道を手術してから約1年、こんなに早く別れが来るとは夢にも思っていなかった。
手術の経過もよく退院してからはお酒も飲めるようになり、麻布234回(同期会)の常任幹事を務め、社団法人日本山岳会の役員として地方へも元気に飛びまわっていた。12月8日再度入院した時にどうも癌が転移したようだと話していたのが気がかりだった。退院後会った時、どうも本調子にならないと言っていたが、転移した癌の治療は難しかったのかもしれない。ご両親はご長命だったのだから小倉の身体にも長命のDNAがあったのだろうけど、どうして傷ついてしまったのだろうか。6月8日最後のお別れをしたが、いつもかぶっている帽子を脇におだやかな顔をして眠っていた。
小倉が悔やんでいたのに麻布学園山岳部の遭難がある。1972年(昭和47年)4月10日那須朝日岳で高松武信君と坂本道哉君の2人が登山中雪崩にあい遭難死した事件である。当時麻布の山岳部は「OB会で面倒を見ます」と言って指導委員会制度をつくつて小倉が初代の代表指導委員になり、代々引き継がれてきた。しかし学園紛争などがあり、OBと現役の間に断絶ができ、山岳部部長先生とも意思の疎通が充分でなく悲劇を招いてしまった。部報岩燕の「那須朝日岳遭難追悼号」に詳細な記録があるが、小倉はこの遭難を風化させまいと13回忌まで毎年この遭難現場を訪れ2人の霊を慰めていた。1984年(昭和59年)6月24日「13回忌・那須追悼登山」及び「慰霊祭」はご遺族、大賀校長、中村、立松両理事、教職員,地元関係者、OB、現役、と60名以上の参加をみて盛大に行われた。やつと肩の荷をおろした日となつた。小倉は1949年(昭和24年)冬の赤谷尾根より剱岳の合宿で足の指が凍傷になり長い距離を歩くのに不自由していた。叉スキーで複雑骨折もしていた。丸12年那須の山登りはつらかったようだがけっして弱音は言わなかった。 6月8日の告別式で、社団法人日本山岳会の平山善吉会長は小倉が50年間山岳会に尽くされた功績を称える弔辞を読まれた。常任理事、副会長、常任評議員としての足跡は全国会員の胸に残されている。叉同級生だった日下田氏は弔辞で早稲田大学山岳部、稲門山岳会での活躍を偲ばれた。人生80年の時代なのだからもう少し長生きして欲しかった。麻布を愛し、山岳会の発展に尽くされ、家族からも頑固と言われながら孫を可愛がっていた小倉の姿はもう見られない。心からご冥福を祈ります。合掌 |
本当に有り難うございました近藤隆治(1950年卒) |
小倉さんは私の兄貴分でもあり 恩人でも有ります 心から有り難う と お礼を申し上げたい先輩です
私が麻布中学2年の頃から山岳部を通して半世紀以上のお付き合いでした 数々の合宿も厳しく指導を受けました ある時は麻布の山岳部員の技術向上のために 早稲田大学の現役部員を連れて来てくれた事も有ります その中にマナスル登頂者の日下田 実さんも居たことを覚えています 学校出た頃 小倉さんに金がないから只で山に行ける方法は無いかと相談をしたところ「よし 解った」、と当時山岳映画家の福原健司さんに紹介をしてくれました それ以来 無報酬で助手をしながら一人前に成り 映像の世界に飛び込んでしまい ドキュメンタリー作品を製作しつつ私の人生の大半を送ることが出来ました お陰で世界中の秘境 オリンピック取材 内外の山々 を旅したのです 中でも 1962 年早大のペルーアンデス遠征隊隊員として推薦をされ ネバド。アルパマヨにも登頂することが出来ました これら全て小倉さんのお陰と感謝しております また早い内から日本山岳会(会員番号 4473)に入れて戴き多くの仲間も出来ました 今も楽しく遊んでいます 勿論 AAC に於いては OB の仲間がそれぞれにお世話になり数多くの思い出があります 小倉さん宅での想いで ご家族の事 八ヶ岳山荘の建設 数えられません 本当に有り難うございました これからも麻布の仲間は小倉さんを忘れる事は無いでしょう 合掌 |
小倉先輩を悼む三島秀介(1958年卒) |
小倉さんを追悼して佐藤則秋(1964年卒) |
戸隠の小屋で、部屋内から戸袋を塗っていると中から蜂が飛び出して、小倉さんは確か蠅叩きを片手におれの後ろでハッタハッタと励んでおられました。 それを後ろから見ていた董子さんはパパが<ひも>を潰しちゃうんじゃないかと案じられていたそうです。 ...笑いながらそう言えばどちらかといえば 蜂の刺しよりも後ろの気が 気になって仕方のなかった虫も殺せない<ひも>でありました。 ランプの下での麻雀抜けていく朝の空 小倉さんはこんなことも話してくれました。 "この前、戸隠をひとりで水も持たずに縦走した。意外にきつかった"...と。 途端に目の前に浮かんでいる針峰群に畏敬の念を抱いてしまった<ひも>でありました。 頬に涙が渇いてゆくその刹那 北の水平線の果てに微笑みが広がってゆく その蒼白さにその暖かさに66冬 刹那洞に風が吹き抜けて うっすら震えて もう何処にも誰もいない 小倉さんほんとうに有難う御座いました。 ひも 04.6.20 |
小倉茂暉さん追悼のページに戻る |
home > members > ob's room > ogura san > memorial
ホーム || これまでの活動 || ギャラリー || コラム || 山岳部員・OB会員のページ || 掲示板 || このサイトについて |
お知らせ || 活動記録 || 八ヶ岳山荘 || 会員紹介 || データ || 管理者へメール |