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想像の山岳誌1

伊東静雄「曠野の歌」

 

 山を眺める。山へ向かう。山に登る。

 誰も想像の山に登ることはできない。だが、想像もせず山に登ることもありえない。

 山岳民族でもなく、山中での狩猟や林業をなりわいにしているわけでもない、いわゆる「平地民」であるわたしたちにとって、日々の生活の舞台に山はない。そんなわたしたちが見上げる山の頂きは、日常生活の外、もしくは非日常の空間に聳え立っている。「山」というトポスが日常の外にしか存在しない以上、そんな非日常の空間に向かうわたしたちのまなざしは、まなざしがかしこに聳え立つ実在の山へとまっすぐに届くまでに、かならず非日常的な想像力の媒介を通過する。わたしたちは、日々のルーティンをやりすごすような要領で山へ向かうわけにはいかない。

 たとえば、ある人の住んでいる部屋の窓から山並みが見えるとしよう。日々の暮らしなかで、目を向ければそこにある山並みに、この人はふだんから特に注意を払っているわけではなかろう。山頂にかかる雲の動きから天気を予想したり、山肌の樹木の色づきや冠雪で、季節を感じたりする、その程度であるにちがいない。しかし、とあるおだやかな黄昏どき、窓枠に腰をおろして、なにを思うとはなしに山稜を見つめて飽きることがない、そんなときこの人は、いったいなにを考え、なにを想像しているのだろうか。少なくとも、晩の献立は何にしようとか、あすの仕事の段取りはどうしようとか、そんなことではないはずだ。

 遠巻きに山を眺める。あの山の懐ろふかく分け入ったならそこはどうなっているのか、はたまたくっきりとスカイラインを描いているあの稜線に上がったならどんな展望がひらけているのか、と想像する。そして、いずれあの山に登ってみたいと考える。あるいは、地図を見、ガイドブックを繙き、山行記録を調べ、天候等を確認して、登山計画を立てる。その過程でもまた、山塊の複雑な地形やルートの状態を、過去の登山経験などから類推し、想像する。いや、かならずしも登らなくたっていい。とにかく何らかの山を想像してみる。それだけでもう、山稜と峡谷がうねる襞となってありありと目の前にたち現われる、そんなことだってありうる。この想像された山の現前が、現実に存在するしかじかの山とどれだけ隔たっているか、さしあたってそれは問題ではない。

 こうしたこと、つまり、山へと向かうわたしたちの心性に内在する想像力のはたらきを、もう一歩すすめて敷衍してみるとどうであろうか。山に惹かれ、山に思いを馳せるわたしたちは、すでにその胸中に、いわば実在する山の手前あるいは彼方に、想像の山を抱いている、そうは言えないだろうか。そうであるなら、想像から実在の山を組み立てるのでもなく、実在の山から想像を検証するのでもなく、想像された山をその想像じたいのリアリティによって、実在の山以上の実在となす、そんなことも考えられないだろうか。

 考えられるとしたら、そんな想像の山を綴るのにどんなジャンルがふさわしいだろうか。あれこれの山岳記録や山岳紀行、登攀誌、はては山をめぐるエッセイなど、いわゆるドキュメントや登山文学よりも、いっけん山とは関係なさそうな、虚構の文学作品にこそふさわしいのではないか。この「想像の山岳誌」では、いくつかの文学作品に書きこまれている「想像の山」を取り上げ、そこに筆者じしんの想像も重ね描きした数葉のスケッチをこころみることで、想像力のみで実在と化した山をたち現わせることができれば、と思う。

 

 *

 もとより取り上げる作品は、もっぱら筆者の好みで選ばれた恣意的なもので、美しく崇高な山岳風景が描写されているとか、息もつかせぬ迫真の登頂シーンが書きこまれている、というわけではない。なかには、常識的には山とは呼べないものや、それが山かどうか判然としないようなものまであるだろう。隠喩や寓意から「山」と言われている場合もあろう。おまけに、作品のなかから山を思わせる部分だけを勝手に切り取ってくるので、いわゆる印象批評でしかないし、いまさっき述べたような理由から実証的な照合はしない。「山へと向かうわたしたちの心性」とは言うものの、そこに山岳信仰の祖型を想定して、民俗宗教的想像力の源泉へ遡るわけでもない。

 ようするに、思いつくまま身勝手に、できれば自由に、行き当たりばったりに書きすすめてみたい。「想像力のみで実在と化した山をたち現わせる」などと、大それた抱負を述べてしまったようだが、成果のほどは保証のかぎりではない。あしからず。ただ断っておきたいのは、都合のいい想像で実在の山を塗りつぶし、手軽で快適な心いやす机上の山旅に遊びたい、といったようなことを意図しているわけではまったくない、ということだ。こころみたいのはむしろ逆のことである。想像力の限界まで赴こうとする想像力の過剰が、かえって想像することじたいを破綻させるにいたるほど、現実との境界を緊張させ、想像されたものの綻びから実在よりもなまなましい現実が露呈する――そんな光景が出現せんことを、ひそかに願っている。

 想像は現実におよばないという見解と、想像は現実を凌駕するという見解は、いわばコインの裏表のようなもので、そこで言われている「想像」と「現実」はどちらも、それじたいが想像的な作りもの、フィクションにすぎない。じっさいには想像されたものとは、想像と現実のあいだをたえず往還しながら、いまだ想像されざるおのが限界でつねに現実と衝突し、拮抗し、たがいを侵犯しあっている。文学が果たすべき営為は、現実のもっともらしいコピーやミメーシスを作ることではない。見かけの現実のしたにひそむものを露呈させ、想像と現実双方の限界を問いなおすのである。

 遠くから仰ぎ見るたおやかな、おだやかな山稜。だがそんな山稜にも、じっさいそこに分け入ってみれば、獣も通えぬ壮絶な藪、崩壊したガレ場、つるつるのスラブ、斧でたたき割ったようなゴルジュ、絶望的な大滝、等々、とても見かけからは想像もつかぬような悪場がひそんでいたりするものだ。「想像の山」もそうであるはずだ。見かけは何気ない、ちょっとした想像でも、その深みを掘りさげてみればじつは、どんなまがまがしい動機と衝動がからまりあっていないともかぎらない。そのときたち現われる想像の山は、実在する山以上に、いや、実在する山がほんらいそうであるように、まがまがしく不気味で、怖ろしいものとなるだろう。

 

*  *  *

 

 しばしば日本近代詩中の絶唱と評される伊東静雄の「曠野の歌」は、伊東の第一詩集『わがひとに与ふる哀歌』の、巻頭から二篇目に置かれた作品である。

 行あきなしの十五行。ひと息に歌いあげるには、ちょうど過不足のない長さ。そのコンパクトな行数にもかかわらず、冒頭のいきなり調子高い歌い出しから、ややしめやかな、秘めやかな中間部を経て、終盤でふたたび高揚して冒頭のモチーフに回帰する、簡潔にしてドラマチックな旋律。乗りやすく、そのためしばしば流されやすい七五でないかわりに、助詞の一語でさえもおろそかにされていない、すみずみまで神経のかよった緊密なリズム。韻律の面からみれば、まさに絶唱と呼ぶにふさわしい完璧な詩形だと思う。以下にその全行を引く。ただしルビは()内にまとめた。

 

   曠野の歌

 

 わが死せむ美しき日のために

 連嶺の夢想よ! 汝(な)が白雪を

 消さずあれ

 息ぐるしい稀薄のこれの曠野に

 ひと知れぬ泉をすぎ

 非時(ときじく)の木の実熟(う)るる

 隠れたる場しよを過ぎ

 われの播種(ま)く花のしるし

 近づく日わが屍骸(なきがら)を曳かむ馬を

 この道標(しめ)はいざなひ還さむ

 あゝかくてわが永久(とわ)の帰郷を

 高貴なる汝(な)が白き光見送り

 木の実照り 泉はわらひ……

 わが痛き夢よこの時ぞ遂に

 休らはむもの!

 

 いかがだろうか。いささか完璧すぎる詩形に、息ぐるしささえ感じなかっただろうか。そう思って読みかえすと、四行目にしっかり「息ぐるしい」と書いてある。いわば、形式と内容が一致している。しかも、読み手が「息ぐるしい」という、詩の語り手「われ」とおなじ感慨を抱いたとすれば、ここで読み手は、語り手とある感情を共有しつつこの詩を読んだことになる。読み手による語り手への感情移入、これもまた絶唱が絶唱たりうる条件だろう。

 この詩は、コードとしては特にわかりにくいところはない。状況設定ははっきりしている。語り手のモノローグも一貫している。人称も「われ‐汝」に限定されており、「われ」の声と視点は「汝」に向かってまっすぐに宛てられている。語り手の追憶が挿入されるなどして、時制が混乱するようなところもない。この詩は終始、近未来にそうあってほしい「われ」の願望として語られている。語法のうえからも、比喩的表現などから意味のとりにくいところはほとんどない。

 だが、メッセージは見かけほどわかりやすくはない。屈折している、といってもいい。語り手「われ」が、死への憧憬を高らかに歌っているのはたしかだ。その真摯な歌いっぷりもまた、疑うべくもない。ただ、そのあまりの調子の高さが、逆にひっかかってしまう。ほんとうに言いたいことを、じつは言えないがために、こんなにも高揚しているのではないか。そんな意地の悪い勘ぐりをしてしまう。その鍵は二行目の「連嶺の夢想」にあるような気がする。

 

 *

 「連嶺の夢想」は、この詩における数少ない比喩的表現といえる。夢想するのはふつう人間だけだ。そこをあえて「連嶺の夢想」と言っているのだから、一般的にはここにいわゆる擬人化表現を見てとることができる。

 連嶺が夢想している、とは、たとえばこんな情景だろうか。山中にはまだかなり雪の残る春さきの、うららかな陽気のもと、遠く見あげる連嶺はまるで夢見るがごとく、瞑想するがごとく、その冠雪にまぶしく日光を反射させている。麓には生命の息吹きがいそがしくめぐりはじめ(木の実照り 泉はわらひ……)、農夫たちは馬を、冬のあいだ繋いでいた小舎から曳きだす。雪も融け、くろぐろと湿った土を耕した畑では、種播きに余念がない。そんな山麓の、待ちに待った春の訪れをいっせいに謳歌している様子を、連嶺がしずかに見下ろしている。……

 いかにも牧歌的な、山あいの村では毎年春さきにもなればどこでも見られる、のどかな情景だ。じつはいま述べた情景は、伊東静雄がその画集を愛蔵し、この詩を作るためにモチーフを借用したとされる、19世紀末イタリアの風景画家ジョバンニ・セガンティーニの、「アルプスの春」と題された画面を、そのままメモ的にひき写したものである。たしかにこの絵には、雪をいだいて白く輝く連嶺、馬、種播く人、まばゆい陽光、と、「曠野の歌」を構成している道具立てとの共通点が見られる。では伊東静雄は、「アルプスの春」を鑑賞しながら、画家セガンティーニの視点そのままに、すなわち風景をある一点から近景(曠野)と遠景(連嶺)に、絵画的遠近法に則って配置されたイメージをなぞるようにして、この詩を書いたのだろうか。筆者はそうは思わない。

 なぜそう思わないか。ある既存の、レディメイドのイメージを、見たまま言葉でなぞるように描いた詩など、一般的に言ってたいした詩になりようがない、というのがまず理由のひとつ。もうひとつはより具体的な理由だが、セガンティーニの画風と、伊東静雄の詩想があまりにも異なるからだ。セガンティーニの牧歌的な山岳風景は、この詩の冒頭の「わが死せむ美しき日のために」という、きわめてイローニッシュな歌い出しに、まったくそぐわなくない。しかも、二行目の「連嶺の夢想」もじつは「連嶺の夢想よ!」というように、エクスクラメーションマークまで付されて、切迫した、調子の高い、叫びのような呼びかけであることを伝えている。「夢想」というどこか甘美なイメージを誘う語に、叫びはいかにも似合わない。

 そこで注目したいのが、終わりから二行目の「わが痛き夢」である。「痛き夢」なら、いや、「痛き夢」こそが、切迫した叫びにふさわしい。「夢想」も、この語の慣用的なニュアンスをあえて振り払って、「痛き夢」と等価なものとして見るべきではないか。するとどういうことになるか。「痛き夢」を見ているのは「われ」であった。「夢想」しているのは「連嶺」であった。しかも「痛き夢」と「夢想」が等価であるとは。ここで「われ」は「連嶺」へわれとわが身を委ね、「連嶺」と想像的に同一化したいと、呼びかけているのではないか。「連嶺の夢想」は同時に「われの夢想」であり、「連嶺」との想像的同一化こそが、「わが痛き夢」でもある、と。

 「連嶺=われ」となる。そうなったときこそ、「わが死せむ美しき日」が真に完成する。これを比喩でなく、つまり空想でなく身をもって実践したらどういうことになるか。まさしく「遭難死」ではないか。「われ」は「近づく日」に、山で遭難死して、その屍骸を馬に曳かせることを夢想しているのか。だがはたしてそれが悲痛な夢といえるだろうか。

 

 *

 もちろん、こんな夢想はあらかじめ挫折している。「われ」の死への憧憬が、いくら「連嶺」との同一化への憧憬だといっても、「連嶺」は人間ではないのだから、その憧憬に答えてはくれない。「連嶺」はただそこにあるだけだ。人間の抱く身勝手な夢想などとは、いかなるかかわりもなく。

 相手が人間ならば、同一化の欲望はときに成就することがある。転移は逆転移を誘う。対幻想が生じる(ぼくはきみ=あなたはわたし)。ひとりになった二人が死への憧憬で結ばれるなら、もはや心中への道行きは遠くない。だが、「連嶺」が道行きをともにするわけはない。「連嶺の夢想よ!」、言いかえれば「連嶺よ、きみの白雪を纏う高貴な夢想は、ぼくが見ている痛き夢とおなじなんだよ!」などと、さも思わせぶりにラブコールを送ったところで、「連嶺」はしょせん無慈悲なものだ。そもそも連嶺は夢想などしない。「汝が白雪」は夏になれば消える。

 「われ」はもちろんそんなことは知っているのだ。山と同一化、ないし一体化したいという願望を心に秘めて山に入る。しかもそんな願望はいつもきまってかなわない。下山すればぽっかり心に穴があいたようになって、またつぎなる山行に思いをめぐらす。そして、こんな究極の願望はいつまでもけっしてかなわないことを知っていながら、いや、知っているからこそ、より困難な、より危険な山をめざしつづけるアルピニストはいるだろう。だが、山で自殺したくて山へ行くアルピニストなどいはしない。「われ」の夢想は、こんなアルピニストの願望と同じタイプのものだ。

 さっき冒頭の「わが死せむ美しき日のために」を指して、「イローニッシュ」と言った。「イロニー」とは、すなわち反語のことだ。「死」が「美しい」。これがイローニッシュに響くのは、現実の死がべつに美しくもなんともないことを、「われ」がじつは知っているからである。(いや、「われ」が、ではなく、「伊東静雄」が知っている、と言ったほうが、ほんとうは正しいのだろう。だが、作者である伊東静雄のみが、それが空しい願望であることを知っていながら、語り手「われ」にかくも高らかな死への憧憬を、無邪気に歌わせている――そう読むことは、この詩の、まさにイローニッシュな感興をいちじるしく殺いでしまう。ここはあえて「われ」が知っているとして読んだほうが、作者伊東静雄の意にもかなうだろう。)

 同様に、「わが痛き夢」が「遂にやすらはむ」ことなどないことを、「われ」は知っている。「休らはむもの!」と、またしてもエクスクラメーションマークだ。「休らふ」という、おだやかにくつろぐさまをあらわす自動詞と、吐きすてるように投げ出された叫びとの、あまりにもイローニッシュな対比。口語的に言いかえるならば「この時こそとうとう、くつろげるのに!」。もちろん「われ」は、そんな時がこないことを知っているのだ。くり返すが、この詩は「われ」の自殺願望や、ましてや「遭難死」願望を歌ったものではない。「美しい死」は禁じられている。ではどうするのか。あらかじめ「美しき死」に挫折している「われ」は。

 

 *

 「連嶺」との、想像的同一化の夢はかなわない。だがそれはなぜか。「連嶺」が、「われ」の想像の外にある、現実の、いわば死せる対象だからである。「われ」は現実にたいして覚醒せざるをえない。現実の、死せる対象への同一化をはばまれて、夢想は今度は内へ、想像がまさに想像力のみによって成就する、同一化という夢想の源泉へと遡行をはじめる。現実ではなく想像の、そこに見えている「連嶺」にではなく、みずからの内的ヴィジョンへの、登高をはじめるのである。それが、この詩の四行目以下の、しめやかな、秘めやかな中間部である。――筆者にはそう読める。

 想像の登高? いくらなんでも無茶ではないか。いくら想像上のこととはいえ、「われ」は山になぞ登ってはいない。曠野のまわりを、馬に曳かれてただめぐっているだけではないか。しかも、そのとき「われ」はすでに屍骸、つまり死んでいるではないか。屍骸が山に登るなど、あまりにも強引な曲解ではないか。そんな声が聞こえてきそうだ。そう言われても開きなおる用意ならある。筆者の意図ははじめに伝えておいた。作品の正しい読解がこのエッセイの目的ではない。このエッセイの主役は作品ではなく、あくまで山なのだから。曲解と言われても、筆者に恥じるところはない。

 だが、ちょっと待ってほしい。この詩の中間部、近未来において想像の帰郷を果たすそのとき、「われ」の夢想のなかでは「われ」はすでに死んでいるとして、馬はその屍骸をいったいどこに運び、どこに埋葬するのか。この詩はそんな「われ」が望む最終の目的地、安住の場所を、どこにも書きとめていないではないか。

 すでに死を覚悟した人なら、通常は屍骸をどこそこに葬ってほしいと言い遺す。間違っても、野中をあてもなく曳きまわせ、とは言わない。詩中には、「われの播種く花のしるし」とある。その花を目じるしにして、そのかたわらに屍骸を葬ってくれ、というならわかりやすい。だがこの花のしるしは、馬を、そして馬に運ばれる「われ」を、どこへともなくいざなう道標ではないか。

 そう考えると、「わが永久の帰郷」という詩句も通常とは違った意味をおびてくる。「永久の帰郷」がすなわち死であれば、その帰郷は屍骸を埋葬されることで果たされる。だがそんな埋葬の場所はこの詩のどこにもありはしない。「永久の帰郷」とは、永久につづく帰郷、の意ではないか。

 

 *

 伊東静雄にとっての詩とは、観照ではない。認識の手段でもなければ、夢想の表白でもない。認識であれ夢想であれ、詩がなんらかの行為をあとから書きとめ、定着するのではない。詩がすなわち行為であること、彼が詩作に求めた意味はそこにあった。『わがひとに与ふる哀歌』中の「同反歌」にはこうある。「詩作を覚えた私が 行為よ/どうしてお前に憧れないことがあらう」。

 さらに伊東静雄は、詩が行為であると宣言することがそのまま、かかる行為を詩において遂行することでもある、という、いわば方法とその実践がそのまま一致したような詩を書いている。詩集の表題作「わがひとに与ふる哀歌」である。「曠野の歌」にも共通する詩想にあふれていて、示唆ぶかいものである。「わがひとに与ふる哀歌」の後半部を引く。

 

 あゝ わがひと

 輝くこの日光の中に忍びこんでゐる

 音なき空虚を

 歴然と見わくる目の発明の

 何にならう

 如かない 人気(ひとけ)ない山に上(のぼ)り

 切に希はれた太陽をして

 殆ど死した湖の一面に遍照さするのに

 

 「目の発明」とはなにか。「輝くこの日光」のなかに忍びこんでいる「音なき空虚」、いわば現象の下にひそんでいる実相を、観照するということである。しかしそんなことは何にもなりはしない。「人気のない山に上り」、「殆ど死した湖の一面に遍照さする」という、ぎりぎりの行為にくらべるなら。そう詩は宣言する。しかもこの行為は詩にのみ許された行為である。「太陽」をして「遍照さする」。つまり太陽にむかって、かくあれ、と命じる。神をも畏れぬ行為。そのとき「死した湖」がつかのま息を吹きかえす。語り手の切なる希いが、天変地異さえも思いのままにするのだ。出来事が起きるのではない。詩が出来事を起こすという、いわば詩の純粋行為。

 そんなわけで筆者はこの「曠野の歌」の中間部を、死が近いことを覚悟した「われ」が、そのときおのれの屍骸が曠野に葬られる情景をいまから心ひそかに観照している、というふうには読みたくない。「美しき死」を禁じられた「われ」が、連嶺との同一化をこばまれ、それでも曠野(平地)から連嶺の懐ろへと、想像の、しかもいつ終わるともしれぬ、永久に反復される登高を開始する、というように読みたい。

 

 *

 そう思って読みだすとまず、「息ぐるしい稀薄のこれの曠野に」という一行にひっかかる。じつは筆者は当初からここにひっかかっていた。ヒマラヤやアンデスの高地ならともかく、ただそこにいるだけで息が苦しいほど空気の稀薄な曠野、というイメージが、メタファーにしてもどこか唐突に思えたからだ。死を間近にひかえて息がくるしい、そういう読みもあるだろう。だがそれでは「これの曠野」につながらない。むしろ筆者は「息ぐるしい」を何かのメタファーではなく、文字どおりに読んでみたい。「われ」は曠野にじっとたたずんでいるのではない。「われ」は歩きはじめているのだ。しかも曠野のへりはいまや連嶺への登りにさしかかっている。それで息が切れて苦しいのである。

 こうして、想像の連嶺への登高をはじめた「われ」が通りすぎるのは、「ひと知れぬ泉」であり、「隠れたる場しよ」である。「ひと知れぬ」にしろ「隠れたる」にしろ、ここはもはや外からは人目につかぬ「われ」の内的ヴィジョンであることを告げている。と同時に、ここはもはや農夫や旅人に踏みならされた曠野ではない。いまだ人の通った気配のない、連嶺の懐ろふかくにまで、いまや「われ」は分け入っているのである。

 そこには「非時の木の実」がひっそりと熟れている。「非時の木の実」とは、夏に実り、秋冬を経て春にいたるまで枝に実をとどめ、香味の変わらない橘(柑橘類)の古語である。古語では「ときじくのかくのこのみ」と訓む。それにしても、「橘の熟るる」と言わずに「非時の木の実熟るる」などと、いまではすたれた古語をなぜわざわざ使ったのか。音数合わせか? だがそれだけだろうか。この語の用例を、『古事記』中巻から引く。

 「また天皇、三宅連等の祖、名は多遅摩毛理を常世の国に遣はして、非時の香の木の実を求めしめたまいき。故、多遅摩毛理、遂にその国に到りて、その木の実を採りて縵八縵、矛八矛をもちきたりし間に、天皇既にかむあがりましき。ここに多遅摩毛理、縵四縵、矛四矛を分けて、大后に献り、縵四縵、矛四矛を天皇の御陵の戸に献り置きて、その木の実をささげて、叫び哭きて白ししく、『常世の国の非時の香の木の実を持ちて参上りて侍ふ。』とまをして、遂に叫び哭きて死にき。その非時の香の木の実は、これ今の橘なり。」

 「非時の木の実」は常世の国の植物なのだ。常世、すなわち不老不死の国であり、死人の国である。生者が日頃から自由に行きかうことのできるような場所ではない。「われ」は連嶺の山中で、「非時の木の実熟るる」常世を通りすぎる。天皇に遣わされた多遅摩毛理がそこを通りすぎたように。だが常世から帰還した多遅摩毛理は、すでに天皇が崩御したことを知り、遂には悲痛な慟哭とともに死んだのだ。この「非時の木の実」は明らかに、詩の最終行「わが痛き夢よこの時ぞ遂に/休らはむもの!」に連動し、ひと知れぬその秘めやかなたたずまいのうちにも、終盤の高揚をすでに準備している。

 「われ」はさらに登高をつづける。しかもたどる道中のあちこちに花の種を播いていく。「われ」がたどるのは、いまだ余人が分け入ったことのない、前人未踏のルートなのだから。初登高者、連嶺の開拓者たる「われ」。播いた種はやがて花を咲かせ、その花は「近づく日」、「われ」の同行者になってくれる馬のよき道標になってくれるだろう。だがこの道標は「いざない還さむ」、つまり馬だけが往路をたどって曠野へと下ってしまう。ひとり残された「われ」はどうなるのか。想像の山中を、想像力のみによって一歩一歩しめやかに、秘めやかにたどってきた「われ」は。

 

 *

 かくして「われ」は、とうとう連嶺の頂きに達するのだ。白き残雪がまぶしく横たわる頂きへと。これが「あゝかくて」以降の終盤が、かくも高揚していることの意味である。みずからの想像力のみをたよりに、前人未踏の、想像の連嶺を登ってきた「われ」。現実の、実在の連嶺にたいする、まさに想像力の勝利である。「われ」はいまやみずからの想像力の絶頂にいる。ここは連嶺の頂きであり、と同時に、連嶺との同一化という見はてぬ夢の源流、「わが痛き夢」の源頭部なのだ。

 連嶺の白雪、「高貴なる汝が白き光」が祝福している。苦しかったルートのなかばで、通りすぎてきた可憐なものたちが「われ」の勝利をことほいでいる(木の実照り 泉はわらひ)。まぶしく、しかし心地よい陽光の反射のなかで、「われ」は困難だった想像の登高、その来し方を振り返る。いまではそれもとうとう終わった。これ以上高いところはない。「われ」は勝ったのだ、「わが痛き夢」に。「わが痛き夢よこの時ぞ遂に/休らはむもの!」。だがほんとうにそうなのか。

 「われ」は勝利の高揚のなかで、いま一度思いかえさざるおえない。自分が踏破したのは、たかだか想像で作りあげた連嶺にすぎない。「わが痛き夢」、だが夢から醒めれば、現実の連嶺はいまだあそこに、わが夢の手前もしくは彼方に、なにもなかったように聳え立っている。あの連嶺との同一化の夢想は、いまだ果たされざるままだ。はたしてそんな夢想はそもそも実現不可能なのだとしても、その不可能が実現しないかぎり「永久の帰郷」は永久に終わらない。「痛き夢」が「休らはむ」ときはこない。

 すでに触れておいたはずだ。「曠野の歌」の語り手「われ」が、曠野から遙かな連嶺の白雪を仰ぎ見るまなざしは、そのまま、アルピニズムの黄金時代に幾多のアルピニストたちが、ヨーロッパ・アルプスを、ヒマラヤを、あるいは一の倉や屏風の岩壁を見上げたまなざしと、同じものだったのだ。どこそこのピークを征服する、などと言い、どこそこの北壁が陥落した、などと言われた時代があった。だが山が「征服」されたり、「陥落」したりすることがあろうか。山は何ごともなかったように、以前と変わらぬ姿でそこに聳えているではないか。

 たしかにアルピニストたちは、想像ではなく現実に、その二の足で遙かな頂きを踏んだにちがいない。だが運良く成功と名声をたずさえて下山してみれば、渇望は満たされ夢から醒めるどころか、またぞろなにかに憑かれたようにさらなる危険なルートをめざして、山へと帰ってゆく。初登頂、初登攀、冬期初登、単独初登、無酸素、継続登攀、ダイレクト・ルート、フリー化、……より高く、より厳しく、より困難を求めて。こうしてアルピニストたちがその夢想のはじまりの場所へ「永久の帰郷」を果たすのは、なんともイローニッシュなことに、雪煙のかなたに行ったきり帰ってこないときなのだ。

 アルピニストの見果てぬ夢――かれらが白く輝く連嶺に見た夢もまた、まことに「痛き夢」なのであった。

  

浜田 優 (昭和56卒)   

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