中国雲南省「哈巴雪山」山行

OB会員による海外遠征の記録

 

 

 

四人が五三九六メートルの頂を極める

 

   ――哈巴雪山登頂の記録

森  美文(昭和四四年卒)

計画の経緯

 麻布学園山岳部OB会では、山岳部創立六〇周年記念に中国新疆しんきょうウイグル自治区のボゴダ峰に遠征しました。その経緯から、七〇周年にもどこか遠征登山を実施したい旨、声が上がっていました。

 私はここ数年、雲南省北部のデチェンチベット族自治州の自然保護区にしばしば仕事で訪れていました。自然保護区の幹部職員や彼らに信頼されている旅行会社とも面識があるため、雲南での山行計画には積極的にかかわれるとしてきました。また、若手のOBからは山頂を踏みたいという要望が出たため、この地でトラブルなく山頂に立てる哈巴雪山はばせつざんの山行を計画しました。そして、平成二七年五月のOB総会で七〇周年記念山行として採択され、参加者の募集と現地へのサポート依頼を行ってきました。

 しかし、同年一〇月の理事会において「中国の奥地で情報も少なく、森さんと現地業者との個人的なつながりだけが頼りで、リスクの洗い出し、管理も困難な状況であるため、OB会主催とはしない」との判断がなされ、OB会主催としての七〇周年記念山行は中止となりました。

 しかしながら、すでに参加希望者も集まり、現地にもサポート依頼を連絡していることからも、個人山行として実施することにしました。

 

概要

 雲南省北部はチベット自治区に接し、主としてチベット族が住むデチェンチベット族自治州となっています。地形的にはヒマラヤ山脈の東端で、インド亜大陸からのプレートの動きによって、長江、メコン川、サルウィン川の三つの大河が並行して流れ、「三江併流」として世界遺産に登録されています。

 チベット自治区との境には、チベット族の四大神山として信仰の対象とされる海抜六七四〇メートルの梅里雪山ばいりせつざんがあり、自治州内には五〇〇〇メートル級の高峰が多数そびえています。しかし、地元のチベット族とのトラブルを避けるため、ほとんどの山は未踏峰のままで、唯一頂上を踏める山は哈巴雪山だけとなっています。

 哈巴雪山はデチェンチベット族自治州香格里拉シャングリラ県の南にある海抜五三九六メートルの山で、南に長江の上流である金沙江きんさこうを挟んで麗江れいこう市の玉龍雪山ぎょくりゅうせつざんと向かい合っています。地元ではこの二つの山を兄弟の山と位置づけており、ちょうど二〇〇メートル高い玉龍雪山を兄、哈巴雪山を弟に見なしています。

 

計画と準備

 OB会主催の七〇周年記念山行としては中止となり、個人山行とすることになったので、計画を練り直すことにしました。

 参加希望者は土曜日から翌週の日曜日までの九日間に限らず、それ以上の期間を山行にあてられる者たちばかりだったので、期間を伸ばし、平成二八年九月一三日から二六日までの一四日間とし、まずは昆明に入ることにしました。昆明は一九〇〇メートルの海抜高であること、また、日本語がわかる私の知人が何人かおり、サポートを頼みやすいと考えたからです。

 平成二七年一〇月からは、ほぼ毎月「哈巴雪山を語る会」として飲み会を実施し、興味をもつ者は誰でも気軽に語れる場を設けました。私が多忙なため、いつも林恒生君(昭和四四年卒)が会場の手配役を引き受けてくれて、ありがたく思っていました。残念ながら彼は都合がつかず、山行を断念することになりましたが、在京連絡をかって出ていただき、最終打ち合わせ会にも同席され、たいへんお世話をおかけしました。

 また、宮崎專輔さん(昭和三五年卒)は翌二八年六月の打ち合わせ会に出席され、山行に参加されることになりました。しかし、航空券を購入された直後、脳梗塞で倒れられ、そのまま帰らぬ人となりました。高校教諭として漢文を教えられていたことから、リタイア後はご夫婦で中国各地を旅行されていて、残すは雲南省と貴州省だけとおっしゃられ、今回の雲南行きを楽しみにしていたとのこと、残念でなりません。心よりご冥福をお祈りいたします。

 

 最終的な日程と参加者は次のとおりです。

 

日程(一四日間)

平成二八年九月

 一三日 東京―(航空機)―広州―(航空機)―昆明

 一四日 全日昆明

 一五日 昆明―(航空機)―大理

 一六日 大理―(自動車)―麗江(海抜二四〇〇メートル)

 一七日 全日麗江

 一八日 麗江―(自動車)―哈巴村(海抜二六〇〇メートル)

 一九日 哈巴村―(徒歩、荷物は馬搬)―ベースキャンプ(海抜四一〇〇メートル)

 二〇日 高度順化日

 二一日 哈巴雪山(海抜五三九六メートル)山頂アタック

 二二日 予備日

 二三日 ベースキャンプ―(徒歩、荷物は馬搬)―哈巴村

 二四日 哈巴村―(自動車)―香格里拉(海抜三三五〇メートル)

 二五日 全日香格里拉〈深夜〉香格里拉―(航空機)―昆明

 二六日 昆明―(航空機)―広州―(航空機)―東京

 

参加者(七名)

 森美文(昭和四四年卒)、高野信久(昭和五二年卒)、岩城達之助(昭和五五年卒)、新井洵太郎(平成二二年卒)、渡邊真之(平成二四年卒)、吉川正悟(平成二四年卒)、渡辺耕坪(平成二七年卒)

 

 

旅行日程

九月一三日火曜日

 朝七時四五分、羽田空港国際線ターミナルに集合。全日空便にて広州へ向かいました。ほぼ定刻に広州白雲国際空港に到着。荷物を受け取り、乗り継ぎカウンターに向ったのですが、途中、空港職員から東方航空はここでは搭乗手続きができないと、いったん外へ出て国内線の搭乗手続きをするように指示されました。しかし、乗り継ぎ時間に余裕がないため、無視して乗り継ぎカウンターに向かいましたが、問題なく手続き完了。階上の安全検査に進みました。安全検査場には搭乗客が誰もいないため、ラッキーと思いきや、細部までチェックされました。通常はすんなり通過できるのに、靴まで脱がされる始末。通過後、電動カートで構内をかなりの高速で出発ターミナルまで送ってもらいました。

 昆明までの東方航空便はほぼ定刻に離陸。昆明に着くと、私の知人が出迎えに来ていました。彼女の案内でタクシーに分乗し、市内の雲南大学のホテルへと向かいました。ホテル付近は学生街で、夜遅くまで賑わっており、チェックイン後、屋台でソバをご馳走になりました。

 

九月一四日水曜日

 前夜の打ち合わせどおり、郊外にある西山森林公園に行くことになりました。雲南大学の構内を抜けて、翠湖公園沿いの道路でタクシーを拾い、西山森林公園へ向かいました。公園入り口付近で地元のバンに乗り換え、山頂の入り口へ。公園の上部から遊歩道を下りていく経路をとることにしました。この山は石灰岩が隆起した地形で、滇池てんちに面する斜面が垂直に切り立っており、絶壁の途中にある龍門石窟りゅうもんせっくつが見どころで、ここからは滇池を挟んで昆明の街が一望できました。

 ホテルに戻って、雲南大学の学生街で食事。食後は喫茶店で雲南コーヒーを飲みながら、明日からの予定を確認し、ゆったりした時間が過ぎていきました。中国は国土が広いのに、北京時間だけで国内の時差がないため、西のはずれの雲南では夜遅くまで明るく、つい夜更かしをしそうでした。

 

九月一五日木曜日

 早朝、雲南大学近くの停留所から空港バスで昆明長水国際空港へ。昆明は地方都市であるものの、東南アジアなどと結ぶ発着便が多く、北京や上海の空港に匹敵するほどの大きな空港が整備されています。

 われわれの搭乗機はほぼ定刻に離陸し、大理だいりに到着。大理は海抜四〇〇〇メートル級の峰が連なる蒼山そうざん洱海じかいとに挟まれ、ペー族によってつくられた風光明媚で古い歴史を持つ街です。この街の名は、地元で採れる石の名前を「大理石」としたことから、広く知られています。咋今では、良好な環境を求めて大都市に住む富裕層の移住が進んでいます。

 蒼山は麓からロープウェイで森林限界近くまで行き、そこから木道を登ることで、洗馬潭せばたんという池を見渡せる海抜三九六六メートルの展望台まで行くことができます。高度順化トレーニングを兼ねて行くことにし、全員が富士山超えの高所での登高歩行を経験することができました。

 夕食は街へ出て、火鍋に挑戦しました。大理古城こじょうは、これまで地元民の生活の場の色が濃かったのが、この一年で観光化が急速に進んでいるようでした。

 

九月一六日金曜日

 午前中は休息時間とし、各自朝寝をしたり古城内や付近を散策するなど、自由な時間を過ごした後、一四時過ぎに自動車で麗江へ向かいました。

 麗江には納西ナシ族によってつくられた古城があり、世界遺産に登録されています。古城の外れにある三眼井さんがんせいの向かいの定宿に宿泊したのですが、古城の中心部に入るのに入場料をとるようになっていました。昨年までは自由に古城内に出入りができていたのに、人通りの多い道以外の路地にも係員が配置されていました。入場料は一人八〇元。一カ月有効とのことですが、観光客がそう長く滞在するわけもなく、地元の物価からして日本での四〇〇〇~五〇〇〇円くらいの感があります。その金銭感覚には驚きを隠せませんでした。さらに、夜になると店外まで大騒音を放つナイトクラブが乱立するテーマパーク化した街が世界文化遺産とはと、閉口せざるを得ませんでした。

 

九月十七日土曜日

 商店が開く前の早朝、人通りの少ない麗江の古城を散歩すると、この街の歴史や文化の重みが感じられます。

 宿に戻ると、朝から新井、渡邊両君の体調が悪く、どうも疲れに加えて食事の油か、ヨーグルトにあたったようです。二人に安静にするように伝え、残りの者は、蒼山に続いて再度玉龍雪山に高度順化に行くことにしました。

 玉龍雪山は、海抜三三五六メートルから四五〇六メートル地点までロープウェイで一挙に登ることができます。玉龍雪山風景名勝区の入り口でロープウェイのチケットを買ったのですが、購入の際にパスポートの提示を求められ、チケットには名前と乗車時間が印字されていました。ケーブルの山麓駅では、防寒服のレンタルや簡易吸引酸素カートリッジを販売している売店が並ぶ通路を通って、ゴンドラに乗り込みます。ロープウェイは高度をぐんぐん稼ぎ、上部ではガスの中を上昇し続けました。

 ゴンドラを降りると、そこは森林限界をはるかに超えた岩稜で、北半球最南端の氷河を目の前に見ることができます。あちこちに散乱する酸素カートリッジ、外に出る階段には体調を崩した人が横たわり、ベンチにはうずくまる人の姿があり、目を閉じてぐったりとした幼児を抱きかかえる夫婦。やや驚きの光景が広がっていました。われわれが持参した菓子の包装袋はパンパンに膨らんでいて、酸素が薄いことを実感できます。

 ここから海抜四六八〇メートルの展望デッキを目指してゆっくり登るのですが、あちこちで階段にうずくまって休憩する人で通行が滞っていました。行き止まりのデッキでは間近に氷河を望むことができ、ガスの合い間に最高峰の扇子陡せんすとうが垣間見えていました。われわれは皆、自己最高点を更新。下りのロープウェイは下山客で混み始めており、ゴンドラには中国の夫婦と相乗りで降りてきました。

 麗江の古城に戻ると、香格里拉から来られた山岳ガイドのりんさんと通訳のさんが待っていて、夕食をともにしながら明日からの登山の打ち合わせを行いました。

 体調を崩したために今日一日静養していた二人は、高所環境も加わってのことか、症状が改善されず、少し心配になってきました。中国では薬局でさまざまな薬が手に入るので、医学生の吉川君に薬の購入をお願いすることにしました。

 

九月十八日日曜日

 吉川君の診断による投薬が効いたようで、二人の体調はかなり回復したものの、大事をとって出発を時間の許す限り遅らせることにしました。

 午前一一時過ぎに林さんの運転で出発。通訳の李さんは登山ができないので、ここで別れて香格里拉に戻るとのこと。打ち合わせ時の通訳のため、三時間もかけて来ていただいたことに感謝し、あわせて、打ち合わせ時に間違えのないようにと、通訳を派遣してくれた香格里拉旅行社の彭社長のきめ細かな気遣いが感じられました。

 麗江から山を越えて下り切ると、長江の上流である金沙江に沿った道に出ます。かなり上流部なのに、日本の川の規模からすれば大河といえるほどの川幅です。橋を渡って香格里拉県に入り、川筋の食堂で昼食。こちら側は哈巴雪山の山麓、対岸は玉龍雪山で、ガスの合い間からはかすかに上部を望むことができます。

 食後、虎跳峡こちょうきょうに立ち寄りました。ここは金沙江の川岸が際立って狭くなった大峡谷で、河川勾配もかなり急なため、あたかも日本の洪水時の激流のような流れとなっています。

 虎跳峡に寄り道の後、いくつかの山肌をぬって、哈巴村に到着。ここは納西族、フェイ族、傈僳りす族と漢族が住む村で、哈巴雪山の登山基地となっています。ちょうど到着時に谷をまたぐように虹がかかり、われわれを歓迎しているかのようでした。ここでは地元ガイドのアシュンさんが経営する宿に泊まることになりました。

 夕食前の打ち合わせで、ガイドからベースキャンプまで馬で行くことを提案されました。麗江出発前の体調を考慮しての配慮と思われます。鞍もあぶみも用意されているとのことなので、それを受けて乗馬用の馬の手配を依頼することにしました。また、「酸素を使うか」の問いには、酸素を使ってまでの登頂は望まないことを伝えました。通訳がいない中で、高野君の中国語通訳が心強く感じられました。

 

九月十九日月曜日

 今日は、海抜二六〇〇メートルから四一〇〇メートルのベースキャンプに入る行程です。断続的に小雨が降る中、馬は二度の休憩だけで一五〇〇メートルの海抜高を稼ぎ出し、昼過ぎにベースキャンプに到着。付近は森林限界で、ここから一〇〇メートルくらいは草が生えているものの、その上部は岩稜が続いています。氷河が刻んだ岩壁の上部はガスがかかって見渡すことができません。ベースキャンプは石造りの山小屋で、われわれは二段ベッドが入った四人部屋を二室使うことになりました。ここは馬が毎日上ってくることもあって、夕食の品数も下界と遜色がないほど待遇が整っています。

 

九月二〇日火曜日

 今日は、高度順化のための休息日。

 隣り部屋の中国人パーティは、早朝、雨の中をアタックに向かったようでしたが、明るくなる前に撤退してきたようです。付近を散策したいと思うのですが、一日中断続的に雨が降り、退屈な一日を過ごすことになりました。

 「渡辺の様子がおかしい!」。いわれてみると苦しそうです。風邪気味で登ってきたため、頭痛がするということです。ここは富士山頂より高いところなので、体調には十分な注意が必要。安静にして様子をみることにしました。

 

九月二一日水曜日

 今日は、予定では頂上へのアタック日です。朝三時に起床したものの、大きな雨音が聞こえます。夜通し雨が断続的に降っていたようでした。四時まで天気待ちとしますが、天候は好転しません。結局、今日も沈殿とし、アタックは、明日の予備日の天候にかけることにしました。

 雲南では例年、九月の二週目にはポストモンスーン期に入り、晴天が続くと予想されていました。しかし、今年は九月後半に入っても雨天が続き、地球温暖化の影響が懸念されます。

渡辺君の体調は回復せず、高山病が疑われます。本人も苦しそうなので、馬に乗れるうちに下ろすことにしました。高山病は下山するのがいちばんの特効薬。昼過ぎに上ってきた馬で哈巴村へ下山しました。

 

九月二二日木曜日

 今朝も三時に起床。夜半から雨音は聞こえていなかったようですが、小屋の外に出て空を見上げても星は見えません。頂上にアタックすることにし、朝食をとり、岩城、新井、渡邊、吉川、森の五人にガイド四人のパーティで四時前に出発。

 われわれの前に一組のパーティが先行しているのが、彼らのヘッドライトの光で確認できます。軽い小休を挟んで高度を上げますが、私たちのピッチが速いようで、同時に出発した他パーティを引き離しています。七時過ぎには付近が明るくなってきますが、日の光はささず、ガスが強く、海抜四六〇〇メートルくらいから積雪が見られ、風もけっこう強いという天候です。

 森は、四九〇〇メートルを超えたあたりから呼吸が苦しく、足が順調に出なくなってきたため、トラバース前の巨岩のところで下山を決めました。しかし、海抜五〇〇〇メートルまであと三〇メートルとのことから、ほかの隊員を先に行かせた後、五〇〇〇メートル地点へ到達。ここから下山することにしました。

 一方、頂上に向かった隊員たちは、少し高度を上げた地点でアイゼンを装着し、さらに急峻となった斜面に取りつき、一〇時五分に海抜五三九六メートルの山頂に到達しました。

 予定では一一時半ごろまでに登頂したいという行動計画であったので、かなり速いペースで登りきったことになります。残念ながら濃いガスのため、山頂からの眺望は皆無で、すぐさま下山に移ったのですが、下山も四五〇〇メートル地点付近まで苦しい行程が続きました。

 帰路では、ベースキャンプが見下ろせる植生界付近まで高野君が出迎えに出ていました。この日は雨に降られなかったため、彼もベースキャンプ付近での野鳥の写真撮影に収穫があったようです。

 

九月二三日金曜日

 徒歩で哈巴村まで下ることにし、一〇時過ぎにベースキャンプを後にしましたが、登山道がぬかるんで歩きにくく、道の脇や林間の歩きやすいところを選んで下るため、かなり気をつかうことになりました。夕方、牧場付近まで下りてきたころには天候も回復し、哈巴村が広く見渡せるほどの視界が得られました。

 村の宿に着くと、元気になった渡辺君と合流。この晩は賑やかな夕食となりました。

 

九月二四日土曜日

 朝一〇時過ぎに哈巴村を後にし、香格里拉へと向かいました。途中、石灰岩が水盤のようになった白水台に立ち寄りました。ここは四川省の黄龍こうりゅうをミニチュア化したようなところで、白い棚田のような池に空の色が映し出されて美しさを増しています。

 ここからは四〇〇〇メートル級の峠をいくつか越え、秘境の村々を抜けて、夕刻に香格里拉の街に着きました。街の中心部には大きな建物が立ち並んでいて、ここが海抜三三〇〇メートルを超える高地であることを忘れさせます。

 夕食は高級レストランに招待され、ヤクの肉と松茸の火鍋がたいへん美味でした。

 

九月二五日日曜日

 今日は、香格里拉近郊の観光を予定していました。まずは中国で初の国立公園である普逹措プタツォ国家公園を訪れました。公園ゲートでシャトルバスに乗り換え、湖水をボートで移動するルートがほぼ決まっています。大きな樹木が生えているため、つい忘れがちになりますが、急に動くと息が切れます。各所に気分が悪くなった人への案内表示が目につくことから、ここが富士山の頂上近くの海抜高だということに気づきます。

 いったん市街に戻り、納帕海に行く者と松賛林しょうさんりん寺を見学する者と別れて行動することにしました。また、夕刻には独克宗ドクゾン古城を散策したり、古城の大亀山公園朝陽楼ちょうようろうの脇にある巨大マニ車を回したり、思い思いの時間を過ごしました。

 夜の九時過ぎに香格里拉空港に送っていただき、ガイドの林さん、通訳の李さんと別れ、日本への帰路につきました。この空港からの夜のフライトはしばしば遅れるのですが、この日はほぼ定刻に離陸。深夜に昆明に着きました。しかし、空港のトランジットホテルはすでに満室。しかたなく待ち合いスペースで仮眠をとることにしました。

 

九月二六日月曜日

 朝六時に搭乗カウンターに並びましたが、早朝から搭乗カウンターも安全検査場も長蛇の列ができています。中国の人口の多さをつくづく思い知らされます。

 広州行きの便もほぼ定刻に離陸。何度も中国国内便の遅れやフライトキャンセルに泣かされている者にとっては、とてもラッキーな旅でした。

 広州で昼食をとった後、全日空の羽田行きにチェックイン。無事に羽田に着いて、解散。旅行中お世話になった皆さんに感謝しつつ、家路につきました。

 

 

素晴らしい貴重な経験、仲間に感謝

 

   ――哈巴雪山山行を終えて

岩城達之助(昭和五五年卒)

 

 五〇〇〇メートル級の山岳に挑戦するというと、ハードな遠征登山を思い浮かべるだろうが、この旅は登山よりも、気の置けない仲間との旅物語として記憶の引き出しに収まるものだろう。

 山頂には意外とあっけなく着いた。とはいっても、楽々登れたわけではない。最後は腕時計の高度計を見ながら、階段にするとあと一〇〇〇段くらいだろうか、それなら数日前訪れた虎跳峡の川面から駐車場へ戻る階段くらいかな、などとぼんやりした頭で考えながら、呼吸を荒げないようにとにかく足を前へ前へ送り出していた。山頂での滞在時間は一五分弱。周囲はガスにまかれ何も見えない、そのくせ眩しい、風が寒い、ジャケットが凍っている。山の印象はそんなものだ。

 BCに戻ってからは、登頂のことよりも途中で隊を分けた森さんが別の単独行女性と仲良く下ってきたことをからかって大笑いした。そう、この旅では何度大笑いしたことだろう。親子以上の歳の差を越えて、毎日くだらない話をしていた。まるで徹夜明けの朝のようにどうでもいいことで笑いあっていた。

 そんな楽しい旅をともにできた仲間に感謝したい。そして、專輔さんが旅に加わっていたら、その色彩はどんなふうに変化していたのだろうか。残念に思う。

 

新井洵太郎(平成二二年卒)

 

 初めての海外での登山ということで、不安と期待を抱きながら哈巴雪山山行に参加した。中国に行くこと自体が初めてであり、経験豊富な年上メンバーの方々にアドバイスをいただきながら準備をした。

 実際に中国に行ってみると、山に登る前から中国の持つ土地の大きさと人の多さ、景色の雄大さに心を動かされた。観光を楽しみすぎたせいか、登山二日前にして腹を下し、寝込むハメになってしまった。その日は移動日ではなかったこともあり、回復に全力を注いだが、体調は悪くなるばかりであった。しかし、メンバーの一人に薬などのサポートをしてもらい、翌日には哈巴村まで移動できるだけの体調に戻すことができた。

 その後は順調に体調も回復した。アタック当日の天候は芳しくなく、山頂での景色も望めなかったが、達成感は素晴らしいものがあった。この山行に参加することで、中国という初めての土地に行くことができ、しかも、五〇〇〇メートル級の山に登るという素晴らしい経験を積むことができた。自分自身にとって忘れることのできないものとなったのはいうまでもない。最後に、この山行をともに経験し、さまざまなサポートをしてくれたメンバーに深く感謝したい。

 

渡邊 真之(平成二四年卒)

 

 ほんとうに素晴らしい二週間だった。初めての中国、海外に二週間もいるというのも初めて、さらに海外登山はなおさら初めてで、おまけに中国語もしゃべれない。「さて、どうなることか」と行く前は思っていた。そうした不安は、中国のだだっ広さ、そして、どことなく無秩序で自由な雰囲気にかき消されていった。日本に帰国すると、狭さと息苦しさを感じ、この国の人はみな下を向いていて、どこか所在なさそうに見えた。

 さて、旅のほうはというと、ずいぶんと楽しかった。麗江では新井さんと下痢+発熱に見舞われた。前日調子に乗って食べた一個一五元のヨーグルトが原因ともっぱらの評判である。大理の火鍋屋で漢字と絵と身振りでお店の人とやりとりしたり、世界一大きなマニ車を回してきたり。僕のあだ名がいつの間にか「くまレンジャー」になっていた(今回の旅で生まれたあだ名は「医者レンジャー」「ホラレンジャー」「栗喰猿」など多数)。

 山に入ってから天候が悪かったのは残念だった。寝ると頭が痛くなるくらいの空気の薄さで、生きているだけで体力が奪われていくような感じがした。ガイドの林さんはなかなか陽気な山男で、隣の中国人の団体客はやたらテンションが高く、ババレンジャーと名づけていた宿のおかみさんは意外とかわいげがあった。とても甘いヤクのミルクを飲み、初めての馬(ラバ?)に三時間も揺られておしりが痛かった。

 いろいろと書き足りないのだが、今回の旅が楽しかったのは、間違いなく多彩なメンバーのおかげだろう。メンバー全員に、ありがとうございました、そして、お疲れさまでした、といいたい。

 

 吉川 正悟(平成二四年卒)

 

 哈巴雪山への遠征では、なかなかできない貴重な経験ができた。中国と日本の文化の違いに驚かされ、中国の広大さにさらに驚かされた。日本での普段の生活では、話を聞いたりテレビやインターネットを見たりして、擬似的に経験することはできても、今回のように実際に自分自身でそれを経験することはできない。

 今回の遠征は、これからの私の生活にとても大きな影響を与えたことは間違いないと考える。また、今回はさまざまな人との出会いがあり、そこから学ぶことも多かった。

 最後に、今回の遠征を通じてさまざまなことを教えてくださった森さん、高野さん、岩城さん、新井さん、渡邊、渡辺、そして在京連絡をしてくださった林さんに改めて感謝の意を表します。

 

渡辺 耕坪(平成二七年卒)

 

 今回は哈巴雪山登頂を目指し、初の海外遠征、初の四〇〇〇メートル超え、初の長期日程と自分にとっては初めてのことがいっぱいで、貴重な体験をさせてもらったと思う。出発する前には不安も大きかったが、チームの方々からのさまざまな助け、現地の方々の多くのサポートのおかげで満足な遠征ができてうれしかった。

 これで哈巴雪山山頂を踏めれば、ほんとうに最高の遠征であったのだが、登山本番では風邪と高山病にはばまれ、あえなく一足早い下山となってしまった。残念さとともに、チームの方々に対する申し訳なさを感じた。哈巴村で一人待つ間、ただただ隊の成功を祈ったが、隊は見事登頂を果たした。哈巴雪山に登頂した方々に祝福を贈りたい。

 今回、玉龍雪山の到達できる最高点までは達することができたのだが、やはり哈巴雪山の山頂を踏めなかったのは悔いが残った。もし次があるなら、ぜひとも私も山頂を踏みたいと思う。