立大コーカサス学術踏査隊 中村隊長が手記
 「じみじみと勝利感」
 意志と体力でエリブルス(5633m)登頂果たす

(昭和41年7月1日付朝日新聞夕刊)★★
http://www.peakware.com/より

 

AACネット管理人さま
先日、調べものがあって昔の新聞を繰っていたら、我らが先輩・中村太郎さんが朝日新聞に寄せた手記が載っていました。1966年に立教大登山隊を率いてソ連のコーカサス山脈へ、日本から初めて遠征し、エリブルスなどに登った際の印象。ほかにも、登山の模様をつづった手記が載っていました。当時中村さんは35歳! ロマンティストらしい文章です。せっかくですので、HPのどこかのコーナーで扱っていただけますか?
e−タイピストなる文字認識ソフトを試しに使ってみた。新聞の縮刷版を拡大コピーし、スキャナーにかけて、このソフトでテキスト文書にするのだけど、まあ、ほとんど使い物にならない代物。最初から自分で打ち直した方がよほど速いが、乗りかかった船で意地になって修正したのが、添付文書です。
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山田 新

 

 六月十日の第一次エリブルス試登に失敗した後、いったんベースキャンプに帰り、慎重に二回目のチャンスをねらっていた。その間、ピアタウ(約3850m)の登頂に成功したが、なかなか好天に恵まれず、コンディションの調整に悩んだ。ベースキャンプは、勝手に建設できず、ソ連インツーリストの指定したウクライナの国立登山学校があてられた。行動をおこす時は、荘重な記録簿に、サインしなければならない。ソ連の登山家も同様、勝手な振舞いをすることはできない。

 再度のアタック
シーズン前のコーカサスは、好天が一日しかもたない。六日間のうち一日晴れれば、アタックする予定で、六月十八日から再度エリブルスに挑戦することになった。主任指導員マッケヴィッチと、若手でバリバリの指導員ジミニッキーが同行する。ソ連側でも今度こそ登頂させたいらしく、前とは意気込みが違う。一回目は、食糧計画も失敗した。指導員のいうとおりにしたら、われわれの食べられる物が少なすぎたのだ。
 また、おもしろいことに、登行計画はリーダーの一存では決められない。全隊員と、指導員とで、徹底的にディスカッションをする。決定はリーダーが下す。
 ソ連の山登りは、ツーリストとアルピニストに、明確に区分されていた。ツーリストは、日本の「ハイカー」よりはずっと専門的な種類の人をさす。鬼のようにたくましいツーリストが、うようよいる。アルピニストは、組織的なトレーニングを何年かうけ、階級をつけられる。下級アルピニストが、いきなりむずかしい所へ行くことは、絶対にできない。

 まさに新人天国
十八日は、四千百。にある「十一人の泊まり場」という小屋へ向かう。ソ連では荷物は全員平等に背負うのが原則だ。強い者は弱い者をかばうので、リーダークラスが結局、重荷を背負うことになる。まさに「新人天国」である。隊長として、はずかしい話だが、私にはカメラも持たしてくれない。まったく空身である。どうやら前日の医師の診察によるものらしい。ソ連にはデブのアルピニストはいないのだ。
 すぐそこに「一〇五ピッケット」という小屋が見える。ところが歩いて驚いた。小屋が一向に近づいてこない。これは大変な山だと驚いた。「一〇五ピッケット」は高度三千三百。、雪の中にうもれていた。ここに共同装備を保管する。ここから「十一人の泊まり場」までも、かなり時間がかかった。
 「十一人の泊まり場」はここの言葉で「アジン・ナッツ」という。第二次大戦の独軍との激戦場で、トーチカまであった。こんな高い山の上で、なぜ戦ったのか。理解に苦しむ。個室に分かれ、ベッドがあり、毛布まで用意した快適な小屋だ。石とジュラルミンでできていて、日本とは大違いだ。

 頭痛と戦い深呼吸
二日間、荷揚げなどで高度順化をし、アタックのチャンスを待つ。六月二十一日午前一時出発。満天の星空、気温氷点下二十五度、風速は相変わらず強い。指導員らに見送られる。エリブルスへの道は長い。頂上が見えているだけに、よけいにいやになる。技術的に困難なことはないが、まるで、富士山の化け物のような巨大なエリブルスは、意志の力と体力の山である。頂上直下まで雪におおわれた氷河である。割れ目(クレバス)に気を使う。頭痛と戦う。一歩あるいては、深呼吸をする。私は約一時間、行をともにしたあとリーダー鰺坂、井上、米田、牛窪、佐藤の登頂隊員らとわかれて残る。ひたすら無事を祈った。幸運に恵まれたなら、登頂も……と。
 重松隊員の高山病が、かなりひどい。立教隊きっての猛者が、うなされている。山野井副隊長、高橋隊員がつききりで世話をする。
 午後三時四十五分、佐藤隊員を先頭に、登頂隊は全員帰ってきた。十一時に無事、登頂に成功したのだ。ヨーロッパ第一の高峰エリブルスに、日本人として立教大学のわれわれが初めて登頂したのだ。今後も共産圏の山々に、日本から登山隊が出かけるだろうが、その第一ページが記されたのである。

 花束でもみくちゃ
翌日下山。基地に帰ってくると、キャンプ中の人が出て、手に手に高山植物の花束を抱えて、きちんと一列に並んで待っていた。こちらも一列に並んで、まずキャンプ長の祝福をうける。「あなたは、最初のツバメである。ツバメが帰って来ると春が訪れる。あなたのお陰で、コーカサスも雪がとけて春となるであろう」。シーズン前の登山はごくめずらしいことだし、われわれがその皮切りをしたというわけなのだ。その後はもみくちゃだ。花束の総攻撃である。タスの記者までいる。カメラマンに、何回ポーズをとらされたことか。
 解放されて部屋にもどると、ここも花でいっぱい。勝利者の幸福感をしみじみ味わう。この国の人々の好意に包まれて成功したエリブルス登山を、日本の多くの人々に報告しなければならない。


  

 コーカサスの山人たち

中村太郎立教大登山隊長(35)の手記  (昭和41年7月19日付朝日新聞夕刊)★★

 カヒアニという男は、アルピニスト最初の功労スポーツマスターであることを、強く誇りにしていた。グルジヤ人特育の精かんな顔に立派なヒゲで、いよいよ威厳が加わっている。ウクライナの国立登山学校エリブルス・キャンプで指導者中の実力者であり、年はもう六十に近いらしいが「昨年は、久しぷりにウシュバ(4,694m)に行ったよ」とこともなげにいう。
手ども扱いされる
 わが隊の小柄な三君を、子どもと思いこみ「日本はなかなかやるな、子どものころから学術踏査隊に参加するんだからな」と本気で感心したのには、みんな大くさりだった。
 エリブルス登頂の祝賀会でも、ウオツカの杯を重ねるほどに陽気になり、コザックのダンスを披露してくれた。いきなり刃渡り約30cmのコザック刀を抜き、口にくわえた。ギターの伴奏で、腕を組み腰を落し足を交互にはね上げる。激しいおどりで息をのむおもいだった。踊り終ると、さすがに息づかいも荒く「日本の若者よ。遠くコーカサスまでよくぞきた。わたしは、エペレストを征服したハントとテンジンも迎えたが、今晩ほど楽しくはなかった」とみかけによらずお世辞もいう。「日本の山にこないか」というと「氷河のない山は、アルピニストの山じゃない」とカラカラと笑った。

 「鉄人ユーリー」
パルフォメンコ・ユーリーには、われわれは「鉄人ユーリー」の称号を贈った。鉄人ユーリーは、エリブルス登山學狡の、いわぱ切札である。若いだけにハッタリもある。「ウシュパに登るのは、こうするんですよ」と部屋のドアに指をかけると、ひょいと登ってしまった。ものすごい握力である。彼にかかると、登山は陸上競鼓の一種目になってしまう。「岩はもたもた登ってはいけない。早く登って早く降りてくると、うまいボルシチにありつけるからね]」ど片目をつぷってみせる。ロシア人のなかでも、戦後派にはいるのだろう。ジャズが大好きで「キミはサーフィンができるか」などどケロリといい、これが赤い国の青年かと驚いた。
 登山学校には、先生たちの家族もいる。ロシアの子どもは、人形のようにかわいい。人なつこくすぐ仲良しになった。パッティマは五歳だ。「パパは」と聞くと「ニエット」といい雪の山をさす。はじめはわからなかったが、山で遭難したというのだ。

 美しい山男の未亡人
バッティマのママは大そうな美人なので「あなたのような魅力的な女性が再婚しないのは、男として残念である」というと、笑って家へ招待してくれた。山中なのに電気冷蔵庫まであるモダンな住宅である。お茶と自家製のアイスクリームをごちそうになり、亡夫の記念品でいっぱいの部屋をみた。パミールのピーク・コミニズムに登った時の写真や、にぎり太のピッケル、彼が書いた山の本まであった。この思い出を整理しないうちは、再婚は望めないであろう。


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